著者
桂木 健次
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.141-154, 2016-07

国債の償還は,「未来世代のGDP(付加価値)」によってされているというのではなく,経済実体が消費を通して将来に向けて最終的な付加価値であるGDPを生み出すための中間消費とみなされる金融(通貨価値)の「シャドー・プライス」を意味する通貨発行益から償還させられていく。一般予算からの税収や借金(国債)を財源として歳出されている「国債費」は,定率繰入として主に償還される債券に裏書されている「付利」の支払い並びにその償還の会計運用積立に充てるためである。つまり,将来世代なる近未来が税金から負担するのは,「利払」分並びに特別会計運用経費である。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.313-366, 2002-11

本稿ではシカゴ学派社会学の諸成果を素描し, 1920年代を中心にアメリカの社会状況との関連性を考えていきたい。
著者
大坂 洋
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.603-632, 2015-03

松尾匡氏は一般読者向けの新書を含めて,極めて活発な執筆活動をしているマルクス経済学者である。本稿は,松尾匡氏とかわした議論をもとに,従来見過ごされがちであった松尾疎外論の論点を明確化し,その分析にふさわしい枠組みを提案する。
著者
木原 淳
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.417-442, 2015-03

何故に労働の投下が,物件と身体を同質化するのか,またそのことと,身体の法的性質はどのような関係にあるのだろうか。本稿はこの問題の端緒としてロックとカントの所有論と対照する。両者は共に,契約による所有の根拠づけを拒否する点では共通するが,カントはロックの労働所有説を批判し,所有制度の淵源を,領土高権を背景とする土地所有制度に求める。これは所有権のもつ公共性を重視した現実的な思考ではあるものの,この思考は身体と所有との密接な関わりを完全に排除しており,身体と所有にかかわる限界事例に対して無力なものとなっている。そのような観点から,熊野純彦の議論を参照しつつ,所有と身体ないし生命との密接な関連を明らかにし,身体をめぐる法的問題の指針とすることを目的とする。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.1-50, 2000-07

前稿,前々稿において,トマスとズナニエツキ著fヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』の第一次集団論序論を詳しく見てきた。そこでは,家族を単位とする等質的・固定的な社会から,個人を単位とする異質的・流動的な社会へという変動過程が,様々な角度から検討されていた。家族に代表される伝統的な第一次集団は,相補的な援助に基づく「連帯」によって特徴づけられる。その成員は,見返りを求めずに互いに犠牲を払って助け合い,完全に集団の中に埋没していた。しかし,こうした伝統的な第一次集団は,移民による社会圏の拡大や産業経済などの景簿によって,次第に解体していく。その結果集団の統制に従わない自己本位的な個人が析出されていった。本稿では,以上のような第一次集団論序論の基本的枠組に従い,ポーランドの農民家族と,アメリカに渡った家族員との間で交わされた手紙の分析を見ていく。前々稿において『ポーランド農民』には「抽象度の高い形式主義的な方法論のレベル」「農民の近代化を扱ったより実質的な理論のレベル」「資料のレベル」という三つのレベルが想定できることを指摘しだ。本稿は,その「資料レベル」を扱うものである。そこには急激な社会変動期における農民たちの生活が,生き生きと表れている。
著者
竹林 信一
出版者
富山大学
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.5, no.2, pp.185-198, 1959-11
著者
松井 暁
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.p45-75, 1995-07
著者
渡植 彦太郎
出版者
富山大学経済学部経済研究会
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, 1959-03

これは純粋な思弁哲学上の問題ではない。史的唯物論において存在が意識を決定するといわれる場合の存在と意識との関係を社会理論の視点から考えて見たい。この場合存在とは意識の外部にあってこれと独立しているものを指すと共に物質の社会的生産と関連して考えられている。したがって、それは単に自然的存在に止るものでなく、寧ろ社会的な存在としなければならない。ところが観念論の立場からは、社会的存在自体が既に意識の媒介なしに考えられないとするのであるから、存在が意識を決定するといっても、一つの意識的なものが他の意識を決定するという工合に解せられざるを得ない。更に史的唯物論は経済的なものを同時に物質的と見倣すが、観念論の立場からは、経済的なもの自体が既に文化として当然意識と関連すると考える。したがって経済的なものが下部構造として上部構造としての意識形態を決定するという命題を到底受入れることが出来ないことになる。否、更に進んで、逆に意識形態が経済的なものに大きく作用を及ぼすことを認めざるを得ない。マルクス主義もイデオロギーが或る種の反作用を経済的なものに及ぼすことを否みはしないが、究極的に決定するものは経済的なものであることを譲歩しはしない。そこで観念論の立場で、イデオロギー其の他の上部構造によって決定されるとする経済的なものと、史的唯物論において、上部構造を決定するとする経済的なものとは、同じ名称の下に相異るものを指していうのではないかという疑問が当然生じて来る。このような疑問は筆者がマルクス主義をよく理解していないが故の幼稚な疑問であるかも知れないが、一方ストレチーの如き一応マルクス主義者であった人迄が、上部構造としての政治が経済を大きく支配することを、主張するのを見れば、筆者の疑問は必ずしも幼稚なものとして斥けられてよいとは思われない。そこで以下少しくこの筆者の幼稚な問題を掘り下げて見て、識者の教えを乞い度いと思う。
著者
坂 幸夫
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.155-171, 2016-07

第1に,三菱ふそうバス製造労働組合に注目したのは,この組合が,会社・親企業の「外部労働依存政策の強要」に抗して,「正規社員の採用を基本としたものづくり企業」に拘だわり,ストライキを背景とした労使交渉を通じて,多くの非正規労働者を正規労働者へと,昇格させる人事を実現させた事にある。これは後に見る広島電鉄の場合と同じである。第2に,この組合と会社間では,「年齢別最低賃金に関する労使協定」が締結されている点である。これらは富山県内のみならず,全国的にみてもあまり例のない事である。第3に,この組合は,2013年の春闘で,116日間にも及ぶ5波・延べ22.92 時間の時限ストライキ突入を含む,4ヶ月の長期の闘かいを組織したことにある。この時,「本来の賃金闘争」に加えて,「外部労働」(派遣労働)のあり方」や「職場の適正人員確保」も一大争点として闘ったことである。この中で,労使交渉は,後述する親会社と外資の介入・指導下での交渉・闘いとなり,窮地に立った会社側が当事者機能を失し,富山県労働委員会へのあっせん申請を組合に申し出るなど,第3者機関をも巻き込む,近年にない闘いとなった。闘いの結果は,ⓐ「56歳未満労働者の賃金増額200円」の賃金上積みとともに,ⓑ直接社員・間接社員の削減で悲鳴を上げる職場の「(正規)社員採用」と,「中途採用」の実施による人員増を勝ち取ったことである。以降,この3年間,2013年の労使合意に基づいて交渉が継続され,2013年・14年の両年に亘る「大幅中途採用(社員)の実施」,2016 年の「かってない大幅な新規採用」の履行がされてきたことである。そこで他の例とは,広島電鉄の事である。広島電鉄の労働組合,正確に言うと私鉄広島電鉄支部でも,全非正規労働者,つまり全契約社員を正社員にした。これには3つの要因がある。第1に,「全契約社員の正社員化」が,組合の主導によってなされたということ。第2に,この成果が三菱ふそうバス製造(株)より大きい中規模の企業においてなされたという点である。第3に,「全契約社員の正社員化」によって,正社員の中に給与が「減額」になった組合員がいたことである。人件費総額を膨張させない前提で,経営者側を説得するには,そのような方法しか術はない。しかもこの「減額」が,労働組合自身があえて自らの犠牲を甘受して,非正規社員の労働条件の改善のために献身したという事実にある。以上の事を前提に,広島電鉄の例と対比させながら,以下各項目について述べていく。