著者
熊田 千尋
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.148-102, 2020-03-31

「本能寺の変」が発生した当時、変の原因について、主な公家や織田信長の家臣たちは、信長の四国政策変更によるものとみていた。これが「四国説」の始まりである。 本稿では、変の原因について四国説に求める先行研究の成果と2014 年に公表された『石谷家文書』から新たに判明した史実を結びつけることにより、明智光秀の謀叛実行に至る過程をより明確にした。『石谷家文書』よって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9 年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。 信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである。ただ、信長は、元親が土佐一国の国分条件を受け入れるなら断交はしないとし、光秀はその説得交渉の使者を派遣した。しかし、その後信長は元親の返答を確認しないまま、三男信孝に四国出兵を命じ、一方的に元親を敵対視する措置に出た。この命令は光秀を通した元親への説得中に出されたので、光秀の交渉は無視されたことになった。この二度にわたる信長の一方的な四国政策の変更により、光秀の謀叛の動機が形成されたと考えられる。 謀叛実行のきっかけは、天正10 年(1582)5 月に羽柴秀吉からの援軍要請により、信長が毛利攻めの親征を決め、光秀がその先陣を命令され、加えて、徳川家康らを接待するため、信長が毛利攻めの途中京都の本能寺に殆ど無防備の状態で立ち寄ったことにあった。本能寺の変は、光秀がこの舞い込んだ一瞬のチャンスを活かし、信長を襲撃したものである。