著者
彬子女王
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.9-35, 2019-03-25

慶応3(1867)年、大政奉還がなされ、250年以上に及ぶ徳川の時代が終わり、明治天皇を中心とした新しい国作りが行われることになる。鎖国も解かれ、多くの外国人が日本を訪れるようになる。今まで日本の国内のことだけに気を配ればよかった日本の目は、外を向かざるを得なくなっていく。日本が西欧の列強各国と並びうる力を持った国であるということを国内外に示すために、様々なシステムを整えていくことが求められたのである。 日本人の衣食住も、明治時代に大きな変革を遂げていく。中でも、洋装化は急進的に勧められた改革の一つであった。明治天皇と昭憲皇太后が洋装で様々な行事にお出ましになることを決断され、法令でも正式に定められたことにより、随従の人々の服装もそれによって変化し、徐々に日本国内で洋装が一般化していった。 本稿では、明治から平成に至るまでの女性皇族の衣装の変遷を明らかにする中で、明治時代の洋装化が国内外にどのように受け止められたかを考察する。さらには、洋装化が日本の皇室に何をもたらしたかを考えてみたい。
著者
彬子女王
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.24, pp.9-35, 2019-03-25

慶応3(1867)年、大政奉還がなされ、250年以上に及ぶ徳川の時代が終わり、明治天皇を中心とした新しい国作りが行われることになる。鎖国も解かれ、多くの外国人が日本を訪れるようになる。今まで日本の国内のことだけに気を配ればよかった日本の目は、外を向かざるを得なくなっていく。日本が西欧の列強各国と並びうる力を持った国であるということを国内外に示すために、様々なシステムを整えていくことが求められたのである。 日本人の衣食住も、明治時代に大きな変革を遂げていく。中でも、洋装化は急進的に勧められた改革の一つであった。明治天皇と昭憲皇太后が洋装で様々な行事にお出ましになることを決断され、法令でも正式に定められたことにより、随従の人々の服装もそれによって変化し、徐々に日本国内で洋装が一般化していった。 本稿では、明治から平成に至るまでの女性皇族の衣装の変遷を明らかにする中で、明治時代の洋装化が国内外にどのように受け止められたかを考察する。さらには、洋装化が日本の皇室に何をもたらしたかを考えてみたい。
著者
笹部 昌利
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.26, pp.23-58, 2021-03-31

本稿は、「土佐藩京都藩邸史料」中の御用状を主な史料として、幕末期の土佐藩、殊に文久二年(一八六二)四月以降、武市半平太ら土佐勤王党により主導された藩外交のありようを、藩当局者が如何に把握し、対応してきたのかを考察するものである。着目したのは、御用状の発給主体である藩政当局の小目付役の意見であり、藩政当局の中間管理的な立場にある役務を担う彼らが、土佐勤王党の政治的浮沈に対し、如何に考え、立ち回らねばならなかったかを明らかにした。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.26, pp.308-268, 2021-03-31

常食と菓子の区別は明確なものではない。和菓子は日常生活における常食という側面ももっていたからである。常食と菓子とを区別しようとすれば、生産者と消費者の認識の違いに依拠しなければならない。したがって、和菓子の歴史を明らかにしようとする場合、菓子自体の展開よりも、菓子屋の変遷を明らかにしなければならない。和菓子に関する先行研究では、和菓子の成り立ちや京菓子の特徴が詳細に考察された。歴史的な史料に基づいて実証的な研究が行なわれてきた。しかしながら、菓子屋とその歴史的背景との関連を記述した研究成果は少ない。本稿では、和菓子の成立過程とともに、和菓子と菓子屋との関係を明らかにした。歴史的には、菓子は西欧や中国から日本に伝来した後に、和菓子として独特の発展を遂げた。明治期になって洋菓子が普及し、「和菓子」という言葉が生まれ、洋菓子と和菓子が区別された。しかし、実際は和洋折衷菓子も多く、菓子も多くの食物と同様、文化的な融合化が進んだ。
著者
熊田 千尋
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.148-102, 2020-03-31

「本能寺の変」が発生した当時、変の原因について、主な公家や織田信長の家臣たちは、信長の四国政策変更によるものとみていた。これが「四国説」の始まりである。 本稿では、変の原因について四国説に求める先行研究の成果と2014 年に公表された『石谷家文書』から新たに判明した史実を結びつけることにより、明智光秀の謀叛実行に至る過程をより明確にした。『石谷家文書』よって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9 年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。 信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである。ただ、信長は、元親が土佐一国の国分条件を受け入れるなら断交はしないとし、光秀はその説得交渉の使者を派遣した。しかし、その後信長は元親の返答を確認しないまま、三男信孝に四国出兵を命じ、一方的に元親を敵対視する措置に出た。この命令は光秀を通した元親への説得中に出されたので、光秀の交渉は無視されたことになった。この二度にわたる信長の一方的な四国政策の変更により、光秀の謀叛の動機が形成されたと考えられる。 謀叛実行のきっかけは、天正10 年(1582)5 月に羽柴秀吉からの援軍要請により、信長が毛利攻めの親征を決め、光秀がその先陣を命令され、加えて、徳川家康らを接待するため、信長が毛利攻めの途中京都の本能寺に殆ど無防備の状態で立ち寄ったことにあった。本能寺の変は、光秀がこの舞い込んだ一瞬のチャンスを活かし、信長を襲撃したものである。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.26, pp.360-310, 2021-03-31

わが国では千年以上にわたって、自然が社会的コミュニケーションや文化的表現であり続けている。しかし、日本人の自然観は一様であったわけではなく、大きく変化してきた。本稿では、日本文化の各分野に現われる自然観の系譜をたどった。一般に日本文化における自然観の特徴は、人間と自然との共生とされてきた。日本文化には、古代から空間的にも精神的にも自然が隅々まで入り込んできた。しかし、各分野で再現された自然は、自然そのもの(一次的自然)ではなく、人間の感性を含んだ「二次的自然」であった。本稿は一次的自然と二次的自然の関連性を考察し、共生思想の形成を明らかにした。日本の多くの芸術は、中国文化の影響を受けながら、自然を邸宅や庭園で再現し、さらに自然を屋内に持ち込んだ。この過程で日本文化は深化し、独創的な自然観が培われた。これは貴族をはじめとする上流階層が担ったものであった。その一方で、庶民は一次的自然に接し、自然を主に「畏れ」や「護符」の対象とする独特の自然観をもった。前者の自然観は、近世になって年中行事や名所を通して、庶民の間に拡がり、後者の自然観と融合した。これは二次的自然の屋外化といえるものであった。人間と自然の共生思想は、このような展開をとって形成された。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.24, pp.37-78, 2019-03-25

1980年代以降、世界的に「すし」ブームが広がった。世界でsushiとして想定されているのは、約200年前の江戸・文政年間に誕生した江戸前鮨(握り鮨)である。しかし目下、世界で食べられているのは、主に巻き寿司を中心とした「ロール寿司」や「変わり寿司」である。本稿では寿司の特徴を考察し、日本と世界の連続性の有無を明らかにした。 寿司の特徴を列挙すると、①握り鮨は江戸で生み出されたファストフードであった。②握り鮨の誕生後にマグロが使われるようになった。③握り鮨が全国に広がったのは、終戦直後に委託加工制が導入されたからであった。④戦後の物流と冷凍技術の発達によって、世界中のマグロが取引されるようになり、寿司のグローバル化が進んだ。⑤回転寿司はファストフードとしての特徴を最もよく表わし、グローバル化に貢献した。⑥寿司のグローバル化はフュージョン化を意味し、世界の各地域に合った寿司が生み出された。 食文化は固定的なものではなく、歴史性と地域性によって変化していく。本稿で取り上げた寿司も同様で、グローバル化のなかで多様性をもち、各地域に定着していった。1 はじめに2 ファストフードの誕生3 技術進歩と回転寿司4 フュージョン化と定着5 結びにかえて
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.37-78, 2019-03-25

1980年代以降、世界的に「すし」ブームが広がった。世界でsushiとして想定されているのは、約200年前の江戸・文政年間に誕生した江戸前鮨(握り鮨)である。しかし目下、世界で食べられているのは、主に巻き寿司を中心とした「ロール寿司」や「変わり寿司」である。本稿では寿司の特徴を考察し、日本と世界の連続性の有無を明らかにした。 寿司の特徴を列挙すると、①握り鮨は江戸で生み出されたファストフードであった。②握り鮨の誕生後にマグロが使われるようになった。③握り鮨が全国に広がったのは、終戦直後に委託加工制が導入されたからであった。④戦後の物流と冷凍技術の発達によって、世界中のマグロが取引されるようになり、寿司のグローバル化が進んだ。⑤回転寿司はファストフードとしての特徴を最もよく表わし、グローバル化に貢献した。⑥寿司のグローバル化はフュージョン化を意味し、世界の各地域に合った寿司が生み出された。 食文化は固定的なものではなく、歴史性と地域性によって変化していく。本稿で取り上げた寿司も同様で、グローバル化のなかで多様性をもち、各地域に定着していった。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.298-260, 2022-03-31

わが国では明治期以降、近代的な金融制度が整備されていった。その中で庶民金融は多様な展開を遂げた。しかし、庶民金融に対して公的機関が十分に機能していなかったので、多くの問題を抱えた。本稿は庶民金融のなかで大きな役割を果たした「無尽講」を取り上げ、その展開過程を考察した。無尽講は明治期以前から庶民の間で広範に広がっていた。とくに相互扶助を具現化したものとして知られている。無尽講は近代社会において商品経済の浸透や経済変動の影響を受けた。その過程で、会社形態に移行したものもあったが、現在は無尽講という名称はほぼ消えてしまった。多くの先行研究では無尽講や庶民金融にふれているものの、それらが経済に果たした役割にはあまり言及されていない。さらに相互扶助という精神が、経済に生かされたかどうかはあまり触れられていない。現在、マイクロファイナンスが注目されている。とくに、経済格差が広がるなかで、小口金融が貧困を緩和できるかどうかに注目が集まっている。一方、東アジアには多くの相互扶助組織が機能している。まさにこれらは無尽講にあたるものであり、本稿は、経済格差などの現在の経済問題の改善に何らかの寄与することをめざしている。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.308-268, 2021-03-31

常食と菓子の区別は明確なものではない。和菓子は日常生活における常食という側面ももっていたからである。常食と菓子とを区別しようとすれば、生産者と消費者の認識の違いに依拠しなければならない。したがって、和菓子の歴史を明らかにしようとする場合、菓子自体の展開よりも、菓子屋の変遷を明らかにしなければならない。和菓子に関する先行研究では、和菓子の成り立ちや京菓子の特徴が詳細に考察された。歴史的な史料に基づいて実証的な研究が行なわれてきた。しかしながら、菓子屋とその歴史的背景との関連を記述した研究成果は少ない。本稿では、和菓子の成立過程とともに、和菓子と菓子屋との関係を明らかにした。歴史的には、菓子は西欧や中国から日本に伝来した後に、和菓子として独特の発展を遂げた。明治期になって洋菓子が普及し、「和菓子」という言葉が生まれ、洋菓子と和菓子が区別された。しかし、実際は和洋折衷菓子も多く、菓子も多くの食物と同様、文化的な融合化が進んだ。
著者
鈴木 康久 山崎 達雄
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.89-152, 2021-03-31

京都市民の憩いの場である鴨川は、江戸期の寛文年間に整備された新堤によって空間的な基盤が整ったといえる。この新堤に関する研究は少なく、実態が明らかにされていない。そこで、2018 年に京都産業大学図書館が入手した宝永年間の作成と考えられる「川方勤書」と、表裏一体となる「賀茂川筋名細絵図」の記載に基づき、堤防の整備区間、形状、管理手法について明らかにすると共に、堤防の整備目的について考察した。その結果として明らかになったことは、寛文年間に鴨川の五条橋から上流の両岸に約4200 間の新堤が整備された。その後、洪水の度に西堤は修復を行っていたが、東提は延宝二年と四年の洪水で流失している。そこで、元禄十一年に改修が行われたが、東堤では下鴨領境から下鴨神社の間と、九条殿下屋敷から二条通の間は改修されずに遊水地となっていた。堤防の形状については、西堤の堤防高が2 間に対して、東堤は1 間と洪水が起きた際には東提側に溢れるようにされていたことが明らかとなった。新堤の整備目的は、この遊水地の存在と堤防高の違いなどから、洛中を洪水から守るためと考えられる。さらに、堤防の修復については、修復業務全体を川方が担い、大工方が仕様書を作成し、落札者を奉行所の与力が決める分業体制が整っていたことなど、堤防の整備内容や管理など様々なことが明らかとなり、江戸期における治水行政の一端を知ることができた意義は大きい。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.198-150, 2020-03-31

わが国では高度経済成長期において、食生活や食文化が大きく変化した。日本に限らず、諸外国においても経済成長期に食生活が変化することは、すでに多くの研究で明らかにされている。それは主に穀物中心の食生活から、肉類や蔬菜・果樹などが多くなる食生活に変わると説明されている。さらに、この過程では多種多様な食材が入ってくると説明される。しかし、この説明によって食生活自体の変化はわかるものの、食材を供給している農業との関連がなければ、変化の要因はわからない。つまり、食生活という需要面だけでなく、農業という供給面の変化を関連させて説明する必要がある。 そこで本稿は、高度経済成長期における食生活と農業との関連に注目し、わが国の食生活を含む食文化の特徴を明らかにした。戦後、わが国はアメリカ型食生活の強い影響を受けると同時に、食のインスタント化が進んだ。その一方で、食料不足を解消するために、農業の改良が進み、コメの増産が達成された。これらはほぼ同時並行に進んだ結果、万国博覧会をきっかけとする食のファッション化がもたらされると同時に、コメ余り現象が生じた。そして飽食時代に突入するとともに、再びアメリカの影響によって日本型食生活の見直しが進んだ。これらの動きは、わが国で明治期から続いていた食のフュージョン化が強化されたものといえる。現在、この食のフュージョン化は新たな問題を抱えている。