著者
熊谷 蓉子
出版者
日本教育心理学会
雑誌
教育心理学研究 (ISSN:00215015)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.11-20, 1958-03-25

最初に本研究の意義において,立体表現活動が描画活動よりも,より容易であり根元的であることを明らかにしたが,この2つの活動が最初に行われ始める時期を考察してみると,紙とクレヨンでする描画活動の方が材料からくる抵抗が少いために,幼児にとってはより容易であり,粘土活動よりは早期に始められる。しかしながらこの期の活動は造形活動でも表現活動でもなく,ただ手のリズミカルな運動を楽しむ一種の遊びなのであって,粘土の場合も2才になると,それを握って操作するに充分な手腕力がつくため,描画活動でいわれる錯画と同じような活動が始められる。すなわち粘土のかたまりを机上にたたきつけたり,ちぎったり,くっつけたり,まるめたりするようなごく単純で無作意,無目的な活動である。ところで描画活動において錯画の中に初めて何か形らしいものが現われ,やがてそれが花や船や人の顔になり始めるころには,粘土活動でも何か形らしいものや,命名された「あめ」だの「リンゴ」だのが作られるのである。この形の現われ始める時期が両活動においてほぼ一致していることは,28名の調査を行った幼児から参考資料として集めた自由画と,その児童の粘土活動とを照合した結果明らかになった。形らしいものの現われ始める時期は,大体2才の終りから3才にかけてであるが,最初に現われる形は描画の場合と同じく,命名されていても作品と命名の結びつき19が客観的には理解しがたい場合が多い。しかしながらこの傾向は4才になると一変する。4才児は興味の持続時間命名,形の構成,活動,作品数等すべての点において3才児との問を大きく引きはなす。すでに6才児の中には形を作らない子どもは1人もいなくなり,どのような点からも明らかに造形活動として認められるのである。故に2才の粘土をただ操作して楽しんでいた遊びの時期から,造形活動へと移るのは3才から4才にかけての時期で,これが立体表現活動の最初の著しい発達をとげる時期であると考えられる。〔A〕,〔B〕2つの調査結果の共通な点,すなわち「興味の持続時間」や「題材」「作品数」などについて,幼児と学童の比較を打ってみると,5才児と1年生ではほとんどその差のないことが削る。作品をみても材料の相違があるだけで,特に著しい差は見当らない。故にこのことから児童は入学という,1つの団体生活=社会生活への本格的な出発である激しい環境の変化を経るにもかかわらず,この期には顕著な発達を示さないことが明らかにできる。従って次に著しい変化の現われるのは,I年生からIII年生にかけて,すなわち6〜8才のころである。この期になると幼児期の「食べ物」に変って「乗り物」,人物などが多くなり,空想的表現が多くなる。何を作っても一生懸命で工夫がなされるし,とかく沢山の附属物や装飾がほどこされて説明が詳しくなる。この期の作品には夢があり楽しさがあふれていて,命名も単純でなく,何か事件のようなものを表現しようとしたりして,ユーモラスな題がつけられ成人の微笑を誘う。一方更にIV年生を中心として見られる大きな変化の時期は,描画活動の写実期に相当すると思う。この期においては表現力(器用さ,立体感,運動感たどに現われている)に特に著しい発達が見られ,これはI年生とIII年生の間における差よりも,一層はなはだしい差を示している。この期の作昂はほとんど写実的表現によって支配され,用いる題材も著しく違ってくる。ここで注意すべきは,IV年生にはIII年生ほど楽しい気分があふれ,のびのびとした作品が多くないということである。幼児は自分の残した作品にはほとんど興味を示さないのに比して,高学年児ほど自分の作ったものに対する批評やその成果を気にする傾向にある。故にその作品には自然と子どもらしいのびのびとした所が失われてくるのである。しかしながらそうだからといって高学年児は粘土工作を楽しんでいないのかというと決してそうではない。参考資料として行った図画と粘土工作に対する興味の比較調査の結果が,これを如実に示している。結果をグラフで示すとFig.6になるが,高学年児ほど絵よりも粘土を好む。これは,この期の児童の知的発達がめざましく,自己の作品に対する批判眼がするどくなるためである。すなわち,二次元の平面で三次元の事物を描写する描画活動では,表現意欲とそれを表現する技術とか即応しなくなるために,絵画的表現活動の行きづまりに直面するものと解釈する。ここにおいて児童の表現活動における立体表現活動が新しい意義をもってくる。すなわち立体表現活動は外界の立体物を実立体で表現するのであるから,この高学年の児童には何の抵抗も制約も感じさせない。従って,児童はこれによって容易に絵画的表現活動の行きづまりを打開することができるのである。