- 著者
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犬童健良
- 雑誌
- 情報処理学会研究報告知能と複雑系(ICS)
- 巻号頁・発行日
- vol.1994, no.67(1994-ICS-095), pp.87-88, 1994-07-21
著者の研究スタンスは、自己意識の認知的モデルを探究するにあたって、市場理論や非協力ゲーム理論(あるいはメカニズムデザイン論)とのアナロジーから出発し、心の社会における調整(ordinati)として捉えることであった[4,5].しかしこれら合理性に基づく協調のための一連の語り口は、じつは分権的調整を支える論理的な正当化の信念(stifying beli)にはなりえないことが最近のゲーム理論の文献[2]で論じられている.ここで協働(operati)は、むしろ調整のしくみを通じて各個人の能力の限界が克服されるときに興味ある現象であったことを思い出さずにはいられない.じっさい協働はC.?.Barnardから、後にH.A.Simonがその定式化を受け継いだ、限定された合理性(unded rationali)の概念や満足化原理が論じられたオリジナルの文脈であった.しかし、そもそも合理的でない人がどうやって自分に許された合理性のうち、協働のために放棄すべきかを定められるというのだろうか.