著者
田中 文憲
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
vol.38号, pp.1-22, 2010-03

リーマン・ショック後のアメリカの金融界は混乱が続いている。繁栄を極めた投資銀行の権威は地に落ち、人々は今「銀行業とは何か」という根源的な問を発するに至っている。本稿は20世紀の初めに「ピープルズ・バンク」を掲げて銀行を起こし、わずか40年で世界一の銀行を作り上げたA.P.ジアニーニの発想と行動を分析することでこの問に答えようとするものである。A.P.ジアニーニはイタリア系移民の子として生まれ、早くから農産物の仲買いで成功し、やがて銀行業に転じた。彼は庶民を相手に小口の預金と貸出しを皮切りに業容を拡大していった。やがて彼は全米への業務展開という野望を抱き、その目標に向かって邁進するが、その時拡大の手段になったのが「ブランチ・バンキング」である。しかし、「ブランチ・バンキング」に対しては、ライバルの銀行はもちろん、バンク・オブ・アメリカの巨大化・独占化を恐れた銀行監督当局も強く反発した。A.P.ジアニーニは、こうした抵抗を「政治」の力を使いながら切り抜け、第二次世界大戦が終わった時点でバンク・オブ・アメリカを世界一の銀行にした。A.P.ジアニーニの成功は彼自身の才能のなせる業であることは間違いないが、同時に彼を取り巻く環境、つまりカリフォルニアの大発展も見逃せない要因である。彼は状況の変化を先見性をもって適確に判断し、革新的な手法(たとえば割賦方式による消費者ローン)の開発や新分野(たとえば映画産業)への参入を積極果敢に行った。1990年代以降の規則緩和の流れの中でネイションズバンクとの合併によって巨大化し、さらに総合化したバンク・オブ・アメリカは、しかし、さまざまな問題を抱えるに至った。今、バンク・オブ・アメリカおよびその他の銀行に必要なことは「預金と貸出しこそ銀行業の基本である」との理念、つまりピープルズ・バンクの精神を取り戻すことである。
著者
田中 文憲
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.35, pp.13-32, 2007-03

フランスを特徴づけるものの1つに、エリート官僚による支配がある。これは、絶対王政時代にすでに完成していたものであるが、ナポレオンによって強化された。フランスにおけるエリートの選抜は初等教育段階から始まり、リセの準備学級、グランゼコールで頂点に達する。グランゼコールの中でもエコール・ポリテクニクとENAは政財界に対する影響力という点では絶大であり、高級官僚から、ある者は政界に進出し、ある者は経済界に天下る。エリート支配に対しては、さまざまな批判が存在するが、結局のところ、フランス人はエリートの必要性を感じており、これを受け入れていることがわかる。特に政治・外交面では、エリートが存分に力を発揮している。一方、経済面では問題も多い。今後のフランスの発展は、経済面におけるエリート官僚支配の欠点を克服できるかどうかにかかっている。なお、日本は、政治エリートの養成については、フランスを大いに見習うべきである。
著者
田中 文憲
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.32, pp.1-18, 2004-03

第一次世界大戦が終って間もなく、東京生まれの一人の人物が現代のEUのもととなる「パン・ヨーロッパ」運動を展開した。彼はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーといい、父はオーストリア=ハンガリー帝国の伯爵で外交官、母は日本人で東京の町娘であった。本稿では、クーデンホーフ=カレルギーが起こした「パン・ヨーロッパ」運動の盛り上がりと挫折の理由を探索してみた。当時一世を風靡したオスヴァルト・シュペングラーの「西洋の没落」が告げたヨーロッパの危機に対して、クーデンホーフはヨーロッパを統合することでこの危機を克服することを唱え、強い意志を持って行動した。そこには、クーデンホーフ独特の発想と行動力を支える旧ハプスブルク帝国の伝統や精神、父ハインリッヒの存在、彼の幅広いしかも深い歴史的、哲学的思索があることがわかった。2000年にフィッシャー独外相がヨーロッパ連邦構想を新たに発表して以来、一段高いレベルの統合へ向けて歩みつつあるヨーロッパにとって、ヨーロッパ合衆国ないしヨーロッパ連邦の実現に命をかけたクーデンホーフの発想と行動は、今こそもっと評価され、参考にされるべきである。
著者
田中 文憲
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.40, pp.11-30, 2012-03

第1次世界大戦後、イギリスの国力衰退とともにロンドンの国際金融市場としての力も落ちた。しかし、ナチスの迫害を逃れてロンドンにやって来た一人のユダヤ系ドイツ人移民シーグムンド・ウォーバーグの活躍によって、ロンドンは再び国際金融センターとしての地位を取り戻した。彼はその類稀な先見性と禁欲的態度、権威をものともしない勇気、目標を定めれば最後までしかも完璧にやり遂げる強い意志をもって、金融世界に新たな境地を拓いた。シーグムンドはシティで初の敵対的企業買収をやってのけ既存のマーチャント・バンカーから反発を受けたが、ものともしなかった。また、「ユーロドル」の大量発生に目を付けた彼はその資金を利用して「ユーロポンド市場」を作り上げた。彼はまた誰も相手にしなかった日本に注目して「ユーロポンド」を通して日本経済発展に貢献し、日本政府から勲一等瑞宝章を贈られた。しかし、シーグムンドはS.G.Warburg&Co.の資金不足と販売力不足に悩み、やがて他行との合併を模索し始める。ところが"haute banque"としての特性を保ちながらMorgan Stanleyを目指すという彼の夢は果たされないままシーグムンドは亡くなった。彼の死後、S.G.Warburg&Co.は拡大路線に走った。時はあたかも「ビッグバン」による規制緩和の最中であった。S.G.Warburg&Co.はジョバーとブローカーの買収の後、債券部門の拡大に乗り出した。しかし、資金力がついて行かず結局これがS.G.Warburg&Co.消滅の引き金を引くことになった。ロスチャイルド以外は、S.G.Warburg&Co.を初めすべてのマーチャント・バンクはその歴史的使命を終えて消えた。シーグムンド・ウォーバーグは真のそして最後のマーチャント・バンカーであった。
著者
田中 文憲
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.37, pp.1-20, 2009-03

スイスは九州ぐらいの面積しかない小国であるが、1人当りGDPでは世界トップクラスの豊かな国である。スイスが豊かになった要因は19世紀の経済発展にあるが、その経済発展を支える重要な役割を果したのが、クレディ・スイスを始めとする銀行である。 本稿では、なぜクレディ・スイスのような銀行が誕生したのか、またクレディ・スイスはどのようにして生き残ったか、さらにクレディ・スイスを中心とする銀行がどのようにスイス経済の発展に貢献したのかについて分析を試みた。 その結果、クレディ・スイスが必要とされた最大の要因は鉄道建設に伴う巨大な資金調達にあったこと、また鉄道建設やクレディ・スイス設立などの動きの中心にアルフレート・エッシャーという傑物がいたことがわかった。また、クレディ・スイスが生き残った理由がベンチャー・キャピタル型銀行からユニバーサル銀行への機敏な転換にあったこと、その結果、産業界に「総合的」(ユニバーサル)に関与することができスイス経済の発展に大きく貢献したこともわかった。さらにスイスという「条件」をうまく利用して「金融王国」スイスの礎を築いたことも明らかになった。