著者
白石 直人 齊藤 圭司 田崎 晴明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.12, pp.862-866, 2017-12-05 (Released:2018-09-05)
参考文献数
11

熱力学は理工系の大学生のほぼ全員が学ぶ基礎的な物理学の分野である.第一法則と第二法則を中心にした独自の論法から非自明で実用的な結論が導かれる様子に感銘を受けた人も多いだろうし,一方で,力学や電磁気学とは違って曖昧模糊としたマクロな対象を扱う奇妙な学問だと感じた人もいるだろう.いずれにせよ,熱力学は遠い過去に完成された学問であり,その周辺には研究すべき素材など残されていないと思っている人がほとんどだろう.しかし,実際には,熱力学に関わる未解決問題は数多く残されていて,現代的な研究の対象にもなっている.本稿では,その一例として,熱力学の定番の対象である熱機関に関する我々の新しい定理を紹介する.我々は,おそらくカルノーの時代から多くの人が抱いただろう「許される最大の効率であるカルノー効率を達成し,かつ仕事率がゼロでない熱機関は可能か?」という疑問に対して「不可能だ」という一般的かつ決定的な結論を得たのである.熱力学の教科書に登場するような一般的な熱機関を考えよう.高温の熱浴から熱を吸収し,低温の熱浴に熱を放出し,吸熱量と発熱量の差を力学的な仕事として外に取り出す装置だ.熱機関は石炭による火力発電などで今も用いられている.効率(吸収した熱のうち仕事として利用された割合)は熱機関の性能を表す重要な指標である.熱力学で学んだように,効率は熱浴の温度だけで決まるカルノー効率を決して超えない.一方,実用性を考えると,仕事率(単位時間あたりに生み出される仕事)も重要な指標である.有名なカルノー機関の場合,効率は望みうる最大のカルノー効率を達成するのだが,準静的過程を用いるため仕事率の方はゼロになってしまう.これでは使い物にならない.この状況は,効率を高くしたために仕事率が犠牲になったように見える.これはどのくらい一般的なことなのだろうか? 物理法則が許す範囲で,ありとあらゆる仕掛けを用い,様々な賢い工夫をするとして,効率はカルノー効率に一致するが仕事率はゼロにならないような熱機関を設計できるだろうか? 我々はこの自然な疑問を解決した.我々は,一般的な熱機関の効率と仕事率がきれいなトレードオフの関係を満たすことを証明し,その帰結として,このような「夢の熱機関」は決して作れないことを示したのである.この結果の背景には非平衡統計力学の研究の蓄積がある.そもそも,この研究では「マクロな系をマクロな視点から扱う」という熱力学の方法を離れ,無数の微小な粒子についての古典力学とマルコフ過程によって熱機関を記述している.このようなモデル化の方法はアインシュタインのブラウン運動の理論以来の長年の研究に支えられている.さらに,今回の結果が可能になったのは,非平衡統計力学の分野でこの20年ほどの間に急激に進展した「ゆらぐ系の熱力学」についての知見があったからだ.ゆらぎの定理,ジャルジンスキー等式などのキーワードを目にしたことがあるかもしれない.これらのテーマに関連して深められたエントロピー生成率の概念などが我々の仕事でも重要な役割を果たしている.「ゆらぐ系の熱力学」の従来の研究の多くはミクロな系で意味を持つ新しい物理を指向していたが,本研究のように,ミクロな視点に立つ非平衡統計力学からマクロな系のマクロな性質を議論する方向もこれからさらに発展していくことを期待している.