著者
白石 美雪
出版者
武蔵野美術大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

4年にわたる研究の第2年度として、2017年度は初年度に続いて、7名の音楽評論家(福地桜痴、成島柳北、伊沢修二、大田黒元雄、山根銀二、吉田秀和、遠山一行)の業績調査を行い、「職業としての音楽家」がどのようにして養成されたかに関わる典型例を確認する作業を行っている。大学における音楽学の教育制度が整う以前、海外の著作を翻訳したり、楽譜やレコードの収集を行った教養人、大学での文学・美学研究を通じて養成された、美術も音楽も文学同様に論述の対象とする評論家、そして音楽学の教育制度の成立以後、音楽研究者としての教養をもつ音楽学者では、評論の手法と表現方法が大きく異なっていることが確認されつつある。さらに1936(昭和11)年に文部省が設置した日本諸学振興委員会に関する先行研究を調査し、東洋音楽学会が成立したプロセスを確認した。その一方で、音楽評論そのものの成立についての調査もあらためて行った。明治中期から後期にかけて、とくに明治31年の読売新聞以前の新聞で音楽評論と認めることのできる記事がどの程度、掲載されているかを調べ、また、初期の音楽雑誌における批評的文章の掲載についても調査を行った。また、初年度に続いて、主要新聞における「楽壇」の用例調査を進めた。集団としての音楽論壇、とりわけ「職業としての音楽評論家」について明確化するため、2017年度の新たな課題として計画していた近代日本主要音楽評論家一覧(データベース)の作成にも着手したところである。
著者
白石 美雪
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.17-32, 2012

本論文は、1898(明治31)年の『読売新聞』に掲載された署名入り音楽関係記事を読解することによって、明治期における「音楽批評」の形成を活写しようとするものである。明治初期から新聞雑誌では政治的、道徳的な観点による音楽改良が論じられ、さらに専門雑誌『音楽雑誌』では音楽理論や音楽研究をテーマとした論文が発表されてきた。しかし、音楽会での演奏そのものを対象とした「批評」が成立するためには、外在的な価値観だけでなく、批評家と音楽そのものの間の内在的関係が必要となる。具体的には「批評家」自身が音楽の専門知識をもち、演奏家や作曲家の専門性を批評しようとする態度が生まれて初めて、「音楽批評」が成立するといえよう。このような認識のもとに、具体的には「演奏批評」を意図して計画的に長文で執筆し、さらには「楽評」自体を批評する論考が執筆される段階となった1898(明治31)年の『読売新聞』の音楽批評全19点を取り上げ、「批評」、「批評家」という認識、批評家としての姿勢、演奏の評価基準等を分析した。『読売新聞』を対象にしたのは文芸批評、演劇批評、美術批評の連載評論の伝統をもっていたからであり、とくに1898年に注目したのは、同声会や音楽学校の演奏会、慈善演奏会のほか、1月から明治音楽会の演奏会が定期的に開催され、日本音楽会の活動も再開して、西洋音楽を含む演奏会の数が格段と増えた年だったからである。その結果、年頭に「明治三十年の音楽界」を書いた会外生から、「演奏批評」を書いた神樹生、霞里生、楽石生(伊澤修二)、四谷のちか、なにがし(泉鏡花)、藤村(島崎春樹)、そして楽評を批評した聰耳庵まで、「音楽批評」が自覚的に形成されたことを確認することができた。すなわち、会外生は洋楽の知識と聴取経験による音楽観にもとづいて音楽会を「論評」し、神樹生は身体化した西洋音楽の音感覚から「音楽会批評」「演奏批評」のスタイルを確立し、自ら「批評家」を名乗って「素人評」と区別した。神樹生の共同執筆者である霞里生や、神樹生の執筆機会を継承した伊澤修二は、その批評スタイルを踏襲している。「素人」を自称した泉鏡花や音楽学校選科生の島崎藤村、四谷のちかもまた、自らの知識と経験を生かしつつ、神樹生の批評スタイルを意識した。聰耳庵または坂部行三郎と伊澤修二との論争は、東京音楽学校とその関係者の評価をめぐる内容ではあったが、そこで展開されたのは文字通りの「音楽批評家」批評であった。