著者
石割 隆喜 渡邉 克昭 貴志 雅之
出版者
大阪外国語大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

石割は、いまだ「小説」的である『V.』における「個」としてのパラノイア的主体が、同様にパラノイア的でありながら『重力の虹』においては「多」的主体性へと変容したと捉え、これを従来の「小説」という表現形式の「ポスト・ノヴェル」への移行という観点から検証した。これを踏まえ、ピンチョンの「ラッダイト」が「多」として表象されていないこと(「デカさ」ゆえ、"apparition"たりえていないこと)の重要性も指摘した。渡辺は、死をもたらす銃の発砲と映像の撮影との問に見られる類同性によって引き起こされるアポリアを強調しつつ、デリーロ文学の弾道を描いた。両者の不安的な共犯関係を視野に入れ、無限に反復される暗殺の映像によって増殖する亡霊的なアウラという視点から、『リブラ』に描かれたオズワルドの肖像の分析を行った。『アンダーワールド』におけるザプルダー博物館とテキサス・ハイウェイ・キラーをめぐる論考において、多次元的な「シューティング」が、歴史を無化する揺らぎをいかに惹起するかを考察した結果、正史へのパリンプセスト的な上書きにおいて、銃とナラティヴが螺旋状に振れ合っていることが明らかになった。貴志は、アメリカ演劇について以下の3つの観点から研究課題にアプローチし、その成果を論文、著書、口頭発表の形で公表してきた:(1)「他者」の記憶と人種的歴史を再現し、正史脱構築を目指すメディアとしての身体;(2)人種・ジェンダー・階級を包摂した文化的アイデンティティの表象・形成メディアとしての身体;(3)「他者」のアクティヴィズムを表象・生産し、支配的権力を脱構築する政治文化戦略メディアしての身体。以上から、現代アメリカ演劇における身体は、政治文化的表象性を多様に変容しつつ、複雑化するポストモダンの文化的アイデンティティと歴史認識問題を可視化する(再)表象メディアとして強力に作動していることが明らかになった。