著者
石坂 澄子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100284, 2017 (Released:2017-05-03)

はじめに 日本で発明された寒天は,取り扱いの簡易さと汎用性の高さで早くから海外輸出品となったが,現在は輸入品が高いシェアを占めている.本発表は寒天の貿易について,歴史的な流れと貿易統計のデータを元にした検討を行うことを目的とする.1.中国への輸出  17世紀中頃に誕生した寒天は,貞享年間(1684~87)には早くも輸出品の一つとなった.江戸時代の対清貿易において,銅の流出を懸念した幕府は,代わりに海産物を支払いの対価に用いた.これを俵物諸色といい,諸色の中に寒天が含まれている.寒天の原料となるテングサの産地は伊予のほかは,相模,豊後,伊豆,紀伊など黒潮の流れる太平洋岸沿岸である。その一方,製造は大坂の摂津地域の冬季寒冷な山間部で行われた.出来上がった寒天は長崎へ運ばれて,中国へ輸出されていた.寒天は生産量の大部分が輸出品となっており,例えば1821(文政4)年の史料によると,元艸惣買入高のうち8割5分が長崎貿易用の細寒天に,残りの1割5分が国内消費用の角寒天に仕立てられていた. 明治に入ると寒天の積出港は神戸・大阪・横浜に変わった.三港が輸出港となった理由は,神戸は後背地である摂津地域が古来からの伝統的・歴史的な寒天の大産地であったためであり,大阪は昔からの大寒天問屋が多数存在しており,阪神居住の中華商人が輸出業者として活躍したため,横浜は,関西より遅れて製造が開始された信州寒天が,1885(明治18)年の信越線(上野-横川間)開通によって輸送の便が良くなり後背地に成長したからである. 2.欧米への輸出  近代以降,寒天は中国以外のアジアや欧米にも販路を広げた.欧米では,ゼラチンの代用として食用に使われていた.更にロベルト・コッホが1882(明治15)年に発表した結核菌の論文の中で寒天培地について述べたことにより,需要は一気に急増した. 細菌の培養は,寒天の前にはゼラチンが利用されていたが,寒天よりも低い温度で溶けるという欠点があった(ゼラチンの融解温度〔一度固まってから溶け始める温度〕は25~35℃,寒天は70~90℃).ゼラチンの代わりに寒天を利用するアイデアは,コッホの元で細菌学を学んでいた医者の夫人によるもので,彼女がフルーツゼリーを作る時にゼラチンではなく寒天を使っていたことが元である.彼女はそのレシピを母親から教わっており,母親はジャワに住んだことのあるオランダ人の友達から教えてもらっていた. 3.輸出品から輸入品への転化  原藻の輸入は1952(昭和27)年から始まっており,寒天の輸入もこの頃からと考えられる.寒天の輸出入量は1977(昭和52)年にほぼ同量となり,その後拮抗していたが,1987(昭和62)年を境に輸出と輸入が逆転した.現在は輸入量が圧倒的に多い.原藻も,現在国内で使用されているテングサの8割弱は輸入品である.おわりに  寒天の製造と流通には海運が大きな役割を担っている.今回は貿易に焦点を当てた.採藻・製造から流通への一連の流れを体系化することを今後の課題としたい.文 献野村豊 1951.『寒天の歴史地理学研究』大阪府経済部水産課林金雄・岡崎彰夫 1970.『寒天ハンドブック』光琳書店山内一也 2007.細菌培養のための寒天培地開発に秘められた物語.日生研たより 53:26.