著者
神田 より子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.9-41, 2008-03-31

本論は、山伏神楽・番楽と結びつけて考えられることの多かった権現舞と獅子舞を、その主な担い手であった修験者との関わりの中で考察した。東北地方では、中世期以降、修験者が地域の人々の依頼に応じて数多くの宗教儀礼を担ってきた。中でも南北朝以降の青森県、秋田県、岩手県、山形県の特定地域では、修験者が自分たちの霞場や旦那場において獅子頭を廻し、祈祷を行うことが宗教活動の大きな分野を占めていた。近世期に修験者が地域に定着すると、宗教活動をさらに広く理解し、受け入れてもらうために、獅子を廻す傍ら芸能が演じられた。これらの地域に広がる芸能の中でも旧南部藩領に属していた岩手県地域で修験者が中心となって演じてきた神楽がある。これを本田安次は山伏神楽と名付けたが、これらの地域でそれに相当する集合名称が存在しなかったことから、これは便利な名称として一人歩きした。しかし秋田県、山形県地域では修験者が主に担ってきた芸能は、地元で比較的古くから使われてきた番楽の名称がそのまま用いられた。また本田の著作に取り上げられなかったが、旧南部藩領の青森県下北半島地域に伝わる能舞も修験の手によって伝えられた芸能であった。一方、個々の修験者によって担われ、演じられてきた獅子舞だけではなく、一山を構え修験集落を形成してきた地域でも、獅子舞は重要な儀礼と宗教活動の一翼を担っていた。それは一山を形成してきた修験集落が、他の仏教寺院と同じように、法会の後や、任位・任官など僧侶や長官の昇進や就任儀礼の場に、賓客の来臨を得て行われる延年、それに連なる舞楽や田楽ともつながる総合芸能の姿を伝えていた(1)からでもある。すなわち獅子舞は山伏神楽・番楽だけではなく、延年や舞楽とも関わりがあったことが見えてきた。このことは修験者が関わる場の広がりをも示していることになる。そうした場を想定して、今後は修験者が関わってきた儀礼や芸能を再考する必要が見えてきた。(1)松尾恒一『延年の芸能史的研究』岩田書院 一九九七 二四三―二六五頁、神田より子「修験道の儀礼と芸能―延年を中心に―」『山岳修験』三一号 日本山岳修験学会 二〇〇三 一―二〇頁