- 著者
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福田貴成
- 出版者
- 未来の人類研究センター
- 雑誌
- コモンズ (ISSN:24369187)
- 巻号頁・発行日
- vol.2022, no.1, pp.15-40, 2022 (Released:2022-05-11)
この論考は、父の介護経験の回想をもとに、介護における言語の機能と意味をメディア研究者の立場から考察したものである。2007年から父の没する2013年まで、筆者はヘルパー等のスタッフとともに父の介護に従事した。その過程では、父の心身状態についての詳細なメモ、そしてスタッフ間の情報共有を目的とする連絡ノートなど、相当量の言語記録が残されることとなった。
そこから読み取れるのは、とりわけ介護生活の初期において、言葉は主に「制御」的機能を果たしていたという点である。それは父の生の制御と同時に、スタッフの制御を目的としたものであった。そこに見られるのは「支配」への無意識の欲望であり、利他を標榜しながら結果的に利他を損なっていたことの痕跡である。
制御への傾向は介護の進展とともに変質してゆく。連絡ノートからはスタッフへの一方的な指示が消え、連携を促進する言語運用が目立つようになる。換言すれば、言葉は制御を離れ、「媒介」としての機能を見せ始める。さらにそこには、介護実践の全体が主従関係から解放され、ポジティヴな意味での「メディア経験」へと変容するさまが読み取れる。「制御」から「媒介」へのこうした移行について、本論では伊藤亜紗の利他論、そしてロラン・バルトの音楽聴取論を参照しつつ論じた。
末尾では、「制御から媒介へ」という図式には回収できない残余の存在を指摘した。ここで参照したのは、精神科医中井久夫の「徴候」概念である。時に不要なほどに詳細なメモは、制御欲の発露であると同時に、目の前で弱りゆく生命のなかに感知された微細な徴候——生命の終焉のサイン——の記録でもあったのではないか。そうした理解に基づくならば、筆者の介護生活における言語とは、来たるべき死と現在そして過去とをつなぐ「メディア」としての機能をも担っていたと言えよう。こうした意味で、筆者にとっての介護とは、二重の意味での「メディア経験」であったと考えられる。