著者
小埜 功貴
出版者
未来の人類研究センター
雑誌
コモンズ (ISSN:24369187)
巻号頁・発行日
vol.2023, no.2, pp.153-180, 2023 (Released:2023-04-06)

本研究では、社会学およびジェンダーの観点からジャニーズアイドルを愛好する男性ファンの心理的作用について論じる。主に年齢が 20 代のメンバーを占めるジャニーズのグループを愛好する3名のインフォーマントにインタビューを実施した結果、彼らは同性であるジャニーズアイドルに対して「かわいい」と評価していることがわかる。一般的に男性が同世代の男性を「かわいい」と評価する機会が希薄であるなかで、彼らがジャニーズアイドルから見出す「かわいい」を紐解くと、そこにはアイドル同士の「いちゃいちゃ」や「姫キャラ」といった規範的な男性性にあてはまらない言動や行動を愛でていることが確認された。以上の社会的背景について、本研究ではリキッド・モダンの理論的枠組みを引用し、現代における男性の被抑圧問題と関連づけて論じている。同性としてのジャニーズアイドルを「かわいい」と評価する実践を分析対象として着目したとき、「非男性性」という規範的な男性性に該当しない、男性性における支配/従属のヘゲモニー的な二元論から脱構築された男性アイデンティティーを承認していることが判明する。この非男性性の承認実践は、自己に内在する女性的な視座から男性としてのジャニーズアイドルをまなざすという「女性性からのまなざしを介した非男性性の承認」と、男性としての視座からジャニーズアイドルに内在する女性性をまなざす「女性性へのまなざしを介した非男性性の承認」の2つに分類することができる。以上の男性ジャニーズファンについてのジェンダー的考察から、社会構築主義的観点からの議論が捉え損なってきた男性の内にある女性性の存在や、レイウィン・コンネルの提唱するヘゲモニックな男性性における支配/従属の二元論から脱構築された非男性性の内実とその承認実践について指摘した。
著者
泉沙織
出版者
未来の人類研究センター
雑誌
コモンズ (ISSN:24369187)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.1, pp.115-126, 2022 (Released:2022-05-11)

衣服を脱いでいく見世物であるストリップティーズは、日本では 1947 年に「額縁ショウ」と呼ばれる活人画の展覧から始まった。以降広く「ストリップ」と呼ばれ現在まで形を変えながら続いている。本稿では、これまでの先行研究で「黄金時代」と呼ばれた初期のストリップの特徴を明らかにするとともに、当時の批評実践に着目して、ストリップを享受した男性たちのまなざしのあり方を捉えた。 「額縁ショウ」が「ストリップ」と呼ばれるまでの間には、「ばあれすくショー」「りべらるショー」「デカメロンショー」などの様々な呼称があった。ストリップが「ストリップ」の呼び名を獲得してからも、度々「バーレスク」を名乗って上演され、各種メディアにおけるストリップに対する批評文の中でも、たびたび米国のバーレスクが引き合いに出されていた。 ストリップを多く報じた『内外タイムス』等の批評言説によれば、ストリップの中でも裸を見せるだけのショーは「エロショウ」「ハダカショウ」などと呼ばれ批判の対象であった。反対に、卑猥感のなく美しい肉体、巧みな構成と装置を用いたショーは好ましいストリップであるとされ、それこそが「バーレスク」であると理解されていた。つまり「バーレスク」という言葉が時にストリップへの高い評価を表していたのだが、観客が実際に好んだのは露骨な性表現であり、興行主も儲けるためには性表現を必要とした。 そこでストリップが「バーレスク」を名乗り「芸術」を志向することは、ストリップを見ることの後ろめたさや踊り子への哀れみを打ち消す働きがあったと考えられ、そうまでして女性身体を見ていたのは、占領によって排除された自らの男性性を確認する必要があったからである。さらに、踊り子の身体には米国のイメージが投影され、そうした表象を視線によって支配していくことは、敗戦を克服して男性性を再構築するための手段となっていたのである。
著者
鈴木悠理
出版者
未来の人類研究センター
雑誌
コモンズ (ISSN:24369187)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.1, pp.127-142, 2022 (Released:2022-05-11)

本研究は、初期近代イングランドを中心としたヨーロッパに焦点を当て、その時代における男同士の身体的、性的接触にまつわる言説を分析する。イングランドを含むヨーロッパのキリスト教圏では、男同士の性的な結びつきはソドミーやバガリーと呼ばれ、神に対する反逆的な行為であり、社会の秩序を転覆させかねない大罪と見なされていた。その一方で、ギリシア・ローマ古典を再生産する芸術活動の分野においては、男同士、特に成人男性と少年のあいだに生ずる性的な接触がホモエロティックなものとして美化されることも可能であった。 現代におけるホモセクシュアリティとホモフォビアは、前者が同性間の愛情あるいは欲望、後者がその嫌悪の対極に位置している。しかし、初期近代に用いられていたソドミー/バガリーという非難的な言葉と、牧歌的なギリシア・ローマ神話の再生産のなかにみられる同性間の接触の肯定的表現は、そうした軸の両極に位置するわけではなかった。本研究では、そのどちらもが異教/異郷の他者の表象であり、身体の接触が強制されること、そして少年への嫌悪と性愛が混在しているという共通項を持っていることを指摘する。そして、ソドミー/バガリーとホモエロティックな表現の共存は、先行研究で指摘されたような矛盾ではなく、同性間の性的な欲望という同じ領域における表現のあり方であったことを明らかにする。
著者
福田貴成
出版者
未来の人類研究センター
雑誌
コモンズ (ISSN:24369187)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.1, pp.15-40, 2022 (Released:2022-05-11)

この論考は、父の介護経験の回想をもとに、介護における言語の機能と意味をメディア研究者の立場から考察したものである。2007年から父の没する2013年まで、筆者はヘルパー等のスタッフとともに父の介護に従事した。その過程では、父の心身状態についての詳細なメモ、そしてスタッフ間の情報共有を目的とする連絡ノートなど、相当量の言語記録が残されることとなった。 そこから読み取れるのは、とりわけ介護生活の初期において、言葉は主に「制御」的機能を果たしていたという点である。それは父の生の制御と同時に、スタッフの制御を目的としたものであった。そこに見られるのは「支配」への無意識の欲望であり、利他を標榜しながら結果的に利他を損なっていたことの痕跡である。 制御への傾向は介護の進展とともに変質してゆく。連絡ノートからはスタッフへの一方的な指示が消え、連携を促進する言語運用が目立つようになる。換言すれば、言葉は制御を離れ、「媒介」としての機能を見せ始める。さらにそこには、介護実践の全体が主従関係から解放され、ポジティヴな意味での「メディア経験」へと変容するさまが読み取れる。「制御」から「媒介」へのこうした移行について、本論では伊藤亜紗の利他論、そしてロラン・バルトの音楽聴取論を参照しつつ論じた。 末尾では、「制御から媒介へ」という図式には回収できない残余の存在を指摘した。ここで参照したのは、精神科医中井久夫の「徴候」概念である。時に不要なほどに詳細なメモは、制御欲の発露であると同時に、目の前で弱りゆく生命のなかに感知された微細な徴候——生命の終焉のサイン——の記録でもあったのではないか。そうした理解に基づくならば、筆者の介護生活における言語とは、来たるべき死と現在そして過去とをつなぐ「メディア」としての機能をも担っていたと言えよう。こうした意味で、筆者にとっての介護とは、二重の意味での「メディア経験」であったと考えられる。