著者
篠原 愛人
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-29, 2017-01-31

スペイン語の敬称「ドン」は中世、一部の上級貴族にのみ使用が許されていたが、時とともにその規制は緩んだ。16 世紀にはスペイン領アメリカで征服者が普及させ、先住民の間でも使われるようになった。血筋を重んじる先住民史家チマルパイン(1579~1630?)も作品内で「ドン」を多用したが、独自の尺度をもっていた。本稿ではまず、彼の「ドン」適用基準を明らかにする。チマルパインは、系図を確かめる術のないスペイン人については、血筋より職階を第一の基準としたが、個人的な人物評価も加味した。先住民やメスティソに対しては血統を重視し、正統の首長が大罪を犯しても「ドン」を外さなかった。高い公職に就けば出自に関わらず「ドン」が付けられ、親子や兄弟間でも差がついた。貴族の血を引くと言いながら、チマルパインは自分の両親にも、自身にも「ドン」を付けなかったが、1613~20 年の間に自ら「ドン」を名乗り始める。同じ頃、それまで使わなかった「セニョール」や「セニョール・ドン」という敬称を使うようにもなった。以前、拙稿で指摘したように、自分たちの歴史を回顧し、「クリオーリョ」を意識し始めたのも同じ頃である。このような変化が生じた一因を彼の『第八歴史報告』(1620 年)に探ることができる。「古の言葉」、歴史を伝承する大切さを説き、その重責を自分が担ってゆく決意を表明しているのである。それは自分たちの民族の歴史を語り継ぐ歴史家として覚醒した証と言ってよい。
著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-29, 2018-01

フランス国立図書館所蔵のチマルパインの『日記』がデジタル化され、オンラインで閲覧が可能になった。翻刻では不明瞭な抹消箇所や修正部分も、加筆部分の文字や空白部の大小、インクの色の違いなども、おかげでよく分かる。本稿ではそのような「加工」部分を分析し、『日記』の成立過程について考察した。大半のページは整然としており、『日記』が「最終段階に近い稿」であること、下書きを写したであろうことも見えてくる。転写したことは、抹消箇所からも指摘できる。また「日本」という語の綴りが3 段階(4 通り)に変化し、一部は上書き修正されていることも、今回、初めて分かった。綴りの変化は、ある研究者が言うように、チマルパインの作品の成立年を推定する手掛かりになる可能性があり、その場合、『日記』の果たす役割は大きい。しかし、その前にクリアすべき問題がある。本稿では、チマルパインの生活拠点であったサンアントニオ・アバー教会に関する本文記事と加筆文を分析し、彼がこの教会の先行きを不安視していたことを明らかにした。実際、1624年に同教会は存続の危機に陥り、チマルパインの生活環境も変化したと思われる。『日記』には、16 世紀のメキシコで「生ける聖人」として尊敬されたグレゴリオ・ロペスに関する3 つの加筆文(珍しくスペイン語)があるが、それらがいずれもフランシスコ・ロサの著したロペスの『伝記』からの引用であることを確認した。"Chimalpahin in Paris"0oday we can read the Chimalpahin's original manuscript of "Diario" on line,thanks to the digitalization of the text by the Bibliothèque Nationale de France, inParis. 0hrough his digitalized text, we can recognize his deletions, corrections,additions and blanks that were not so clearly indicated in former transcriptions ofhis texts.Most pages are written in such a neat hand that we suppose this is a nearly finaldraft based on other former ones. We found the spelling of "Japon" changed 3times (4 forms) in the Diario and sometimes it was corrected by transforming "b"-sinto "p"-s. 0hese changes of his spelling may be useful as an indicator of theChimalpahin's writing process, but not without problems.By analyzing his texts on San Antonio Abad church, we detected his anxietyabout the future of his church, which came true in 1624 when the patron of thechurch died and Augustinian order invaded to occupy it.Finally, his 3 additions on Gregorio López, so-called living saint of the 16thcentury Mexico, are written, unlike other parts of his text, in Spanish. We probedthese are literal quotations from Francisco Losa's "Biography of Gregorio Lopez"(1613).
著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-29, 2017-01

スペイン語の敬称「ドン」は中世、一部の上級貴族にのみ使用が許されていたが、時とともにその規制は緩んだ。16 世紀にはスペイン領アメリカで征服者が普及させ、先住民の間でも使われるようになった。血筋を重んじる先住民史家チマルパイン(1579~1630?)も作品内で「ドン」を多用したが、独自の尺度をもっていた。本稿ではまず、彼の「ドン」適用基準を明らかにする。チマルパインは、系図を確かめる術のないスペイン人については、血筋より職階を第一の基準としたが、個人的な人物評価も加味した。先住民やメスティソに対しては血統を重視し、正統の首長が大罪を犯しても「ドン」を外さなかった。高い公職に就けば出自に関わらず「ドン」が付けられ、親子や兄弟間でも差がついた。貴族の血を引くと言いながら、チマルパインは自分の両親にも、自身にも「ドン」を付けなかったが、1613~20 年の間に自ら「ドン」を名乗り始める。同じ頃、それまで使わなかった「セニョール」や「セニョール・ドン」という敬称を使うようにもなった。以前、拙稿で指摘したように、自分たちの歴史を回顧し、「クリオーリョ」を意識し始めたのも同じ頃である。このような変化が生じた一因を彼の『第八歴史報告』(1620 年)に探ることができる。「古の言葉」、歴史を伝承する大切さを説き、その重責を自分が担ってゆく決意を表明しているのである。それは自分たちの民族の歴史を語り継ぐ歴史家として覚醒した証と言ってよい。
著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.23, pp.1-24, 2016-01

「クリオーリョ」という語は黒人奴隷の子孫のうち欧米で生まれ育った者を指す差別語であったが、16 世紀末から植民地生まれのスペイン人にも適用され始めた。当初は主に教会関連分野で使われたが、それは急増するクリオーリョの修道士志願者に対する危機感の表れに他ならなかった。チマルパインが『日記』で「クリオーリョ」を使うようになったのは1608 年から、つまり「史的回顧」を書く前年である。それは決して偶然ではなかった。チマルパインは立身出世を遂げたクリオーリョだけを取り上げ、「クリオーリョ」について回ったネガティブな評価を払拭し、世俗界にも適用して使用範囲を広げた。そこにはクリオーリョへのシンパシーが感じられる。また、「アメリカ生まれのスペイン人は先住民と同等」とガチュピンたちが下す評価への反論でもある。ただし、黒人のクリオーリョに対してはそのような共感はなく、メスティソに対する評価はまだ下しかねていた。クリオーリョとガチュピンの対立は19 世紀初めのメキシコ独立の一因ともなり、その萌芽は17 世紀半ばにはクリオーリョ知識人の間に見られる。いわゆるクリオーリョ愛国心がそれで、その形成と成長にはグアダルーペの聖母信仰が関わっている。先住民のチマルパインがその愛国心の先駆けとまでは言えないが、彼の「クリオーリョ」はその種子だったのかもしれない。