著者
米沢 弘
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.73-87, 1997

This article examines the original image of faith in the Jomon period (the New Stone Age in Japan). The discoveries of Sannai-Maruyama archeological remains in the southern part of Aomori City since 1992 have drastically changed the previous image of Jomon people as a group of primitives driven to look for daily foods. The discovery of several pillars made of big chestnut trees with a diameter of nearly one meter, have led to conjecture of a structure over twenty meters high and the existence of large Jomon village between 5500 and 4000 years ago.This article also discusses remains in the Hokuriku Area, which were accompanied by discoveries of big trees, and the Stone Circle around Towada Lake. It also mentions the Kamegaoka culture in the latest period of Jomon, from which uniquely expressive earthen figures with a kind of snow goggles (somewhat like Inuits) called Shakoki Dogu", as well as elaborately lacquered earthwares and woodenwares with "japan", were excavated. In essence, our image of the spiritual life of Jomon culture, especially as related to festivals, is the main concern of the author. それは三内丸山ショックと言ってよいだろう。1992年の春から始めた,青森市南西部の三内丸山における県営野球場建設にともなう緊急発掘が,私たちの縄文文化に対するイメージを一変させる数々の発見をもたらしたことはよく知られている。 各間隔が4.2メートルで二列に並んだ6本の栗の柱の穴(その中には直径が1メートルほどの柱の根元の部分, 但し腐食のために10センチほどやせ細っていたものが残っていた)それから推測される高さ20メートルほどの巨大な構造物,二列に長く続く大人の墓(子供の墓は住居跡の近くにある),ヒスイの大珠や土偶が出土する(日本最大の板状土偶が出土した)莫大な土器片を含んだ盛土,網代編のほぼ原形をとどめたポシェット(その中には半分に割られたクルミの殻が入っていた),その他赤い漆の木器や,1.2メールほどの舟の櫂などの木製品や動物や魚の骨,木の実などが大量に残る泥炭層,また多くの住居跡,それは5500年前から4000年前まで1500年住み続けられた縄文都市の出現であり,最大500人程度の人々が住んだ可能性もあり,今までの日々の食物の採集に追われた貧しい縄文人のイメージの一新を迫るものである。 幸い野球場建設は中止され,出来上がった2つのスタンドは取り壊され,遺跡は保存し,建造物は学習用として復元されることになった。 三内丸山遺跡は有名な亀ヶ岡遺跡とともに江戸時代中期から知られた遺跡であり旅行家の菅江直澄は『すみかの山』(1759年)の中で三枚の土器と土偶のスケッチを残している。今回の新石器時代の巨大な重要な遺跡の発見は,近年第五の古代文明の出現として注目される,揚子江下流の5000年前の良渚文化の源流とされ大量のモミを出土し(米粒をもともない7000年前とされる)注目された1973年に発掘された川姆渡遺跡,またそれにつづき権力の象徴である玉類(玉琮,玉壁,玉鉞など)が出土し注目される,1986年に発掘された反山墓地も加えてさらに1996年には日中共同の長江文明の学術調査により,長江上流の成都市の南西50キロの竜馬古城造跡の発掘により古代の神殿もしくはジッグラト(階段状のピラミッド形構造物)と思われる造跡が発掘されたが,これらに匹敵するものが,黄河,揚子江と言った大河は無い日本でも海岸沿いの適地に見出だされたと言うことで,これは栗の栽培を伴うブナ樹林(栗はブナ科のクリ属である)の豊富な木の実と海産物による一つのタイプの新石器時代の文明の拠点遺跡の発見であると言ってよい。 普通,縄文一万年と言うが,草創期三千年,早期三千年,前期千年,中期千年,後期千年,晩期千年に区分する。日本では一万二千年程前の世界最古の部類の土器が出土している。