著者
菅 良樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.287-311, 2012-09

本稿では、幕末期における大坂町奉行の動向について初めて具体的に検討し、幕臣川村修就の「家」についても論じた。使用した主な史料は、川村自筆の「日新録」と称する町奉行在任中の「日記書抜」である。この記録が、新潟市歴史文化課に残存していたことは、幕末期の大坂を考察するにあたり僥倖であったといえよう。川村は、両町奉行所での御用日、内寄合と、城代上屋敷での宿次寄合を軸に、町奉行所行政を統括していた。町奉行は宿次寄合開催日以外にも、「触書」の作成や刑罰の決定に関して城代土屋寅直と用談をしていた。川村と相役の佐々木顕發は、大坂の経済復興を期するため、城代をとおして老中阿部正弘に「伺」を立て、「取調書」作成に腐心していた。さらには、欧米列強の軍艦に対する海防費が増大するなかで、町奉行にとって大坂の富裕者からの上納金徴収が重要な責務となっていたが、この嘉永七年(安政と改元)には、プチャーチン来航問題や津波被害からの復興に取り組むことも喫緊の課題であった。このため、川村は御用日、宿次寄合などに出席できなくなっていたのである。川村は荻野流砲術免許皆伝の技能を有し、和歌や書画にも精通していた。川村家は「将軍家御庭番」の家筋で、少禄の幕臣ではあったが、修就は軍事を核に、外交、民政をはじめ幅広い分野に通暁する俊才であったので、大坂町奉行に抜擢されていたと解される。ロシア軍艦来航問題については、城代の土屋が老中の阿部に「伺」を立て、その「差図」に従い、町奉行の川村が最前線で対処していたと認識できた。その一方、被災地復興については、大坂町人の自治能力に依拠しつつも、非常時であるので、川村は「自立的・主体的」に活動していたと論じた。川村自身が大坂市中を頻繁に見廻り、復興の手順を直接指示し、その費用には、川浚冥加金が割り当てられていたことが明らかとなった。修就が同伴していた孫の清雄は、在坂時田能村直入の弟子となり画法を磨き、その後明治洋画草創期の指導者になった。日本の近代化に際し諸分野で貢献した幕臣の子弟に注目する必要があるであろう。
著者
菅 良樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.43, pp.43-70, 2011-03-31

大坂の幕府支配機構について、城代の職権を中心に論説し、以下の点に注目した。