著者
菱刈 晃夫
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.96, pp.199-206, 2007-11-10 (Released:2010-05-07)

本書は、京都大学博士 (教育学) 学位論文に、若干の補筆訂正をして出版されたものである。学位申請に当たっては、著者による先行図書『ホリスティック教育論』 (日本評論社) が参考論文として付されたとある。タイトルの通り、本書の主眼は、まずブーバー対話論の解明にある。が、それとホリスティツク教育が、どうかかわるのか。他者、呼びかけ、応答とは、何か。学位に相当する知見として、ブーバー研究上の貢献として、何があるのか。この点について、著者自身、こう述べている。「ブーバーの人間学や教育論に関する優れた先行研究が多々あるなかで、本書のもつブーバー研究上の貢献があるとすれば (中略) 、現代のホリスティック教育からのアクチユアルな問いかけによって、全体主義や神秘主義に対する彼の対話論の『他者性』や『応答性』のもつ意義を際立たせ、またその視角から彼の対話論の人間形成論としての特質を捉える点にある」 (十一-十二頁) 。あるいは、こうも記されている。「すぐれた先行研究のあるブーバー教育思想研究に対して、本書の研究が貢献しうるとすれば、 (中略) ブーバー対話論の人間形成論としての解読を『全体性』を鍵概念として試みた点にある。いま一度その読解の観点について言えば、本研究は、『人間形成』の主体たる〈世界〉と、自らも形成される客体でありながら『教育』の主体たらんとする『教育者』との間の、その対話的連関を、〈世界〉との間の垂直方向 (聖性) および他者との問の水平方向 (全体性) を交えた『対話』理解を通して、解明したものである」 (二五七頁) 。要するに、ブーバー対話論をホリスティック教育の観点から解読したのが、本書である。すると、ブーバー村話論においては、「他者性」と「応答性」が、聖性と全体性のなかの重要なファクターとして浮き上がってくるという。聖性も全体性も、一歩でも道を踏み誤ると、一方は心理主義や神秘主義、また他方は全体主義や同一化へと急速に傾斜しかけない危険性を常に抱えている、そこでは、「狭き尾根道」を注意深くたどる必要がある。読者は、著者とともに、この「狭き尾根道」をまさに対話しながら、たどることになる。果たして、踏み外すことなく、うまくたどることができるであろうか、できたであろうか。対話になった、であろうか。再度確認しておこう。本書は、「M・ブーバー (MartinBUber1878-1965) の『応答的対話』に関するテキストを、物語論や他者論のインパクトを経た現代思想の地平において、ホリスティック教育が探求する『全体性』と『聖なるもの』に関わる課題意識にしたがって読み解き、その人間形成論的な含意を解き明かすものである」 (四頁) 。構成は次の通りである。二部からなっている。
著者
菱刈 晃夫
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2003, no.88, pp.1-17, 2003-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
57

Philip Melanchthon (1497-1560) is known in the history of Western education as “the teacher of Germany.” He laid the foundation of the new educational system for modern Germany. The basic structure of his thought combines the spirit of Luther's Reformation and the tradition of humanism. In Japan, however, detailed research into his educational thought has rarely been conducted. Moreover, the same point applies to his Christian faith. For Melanchthon, the final aim of education is the promotion of religious piety. He tried to achieve this aim through catechism. Again, a detailed study of his catechism is yet to be done. By examining his original text, the present paper clarifies the principles and method of Christian character building through catechism.Section 1 explains a feature specific to Melanchthon's Christian view of human beings : his focus on the “rebirth” of man. Section 2 clarifies the composition, contents and method of catechism, a catechism as a means to “rebirth.” Section 3 discusses the third usage of the Law by Melanchthon.Melanchthon always explored the method of awaking man to “conscience.” His methodology presupposed the limit of education by man. To elucidate his theory of education, there is still much to be done.
著者
菱刈 晃夫
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.12, pp.73-81, 2003-09-27

相馬伸一氏の「17世紀の教育思想-その再解釈のためのいくつかのアプローチ」という刺激的な論文から、とくに実質内容の中心と捉えられるコメニウスの「類似(アナロジー)」に着目し、その思想史的背景-地下水脈-の一端を、先行する時代・ルネサンスの自然観や「医学のルター」と当時よばれたパラケルススのなかに浮き彫りにしようとするラフな試論。結果、近代教育思想が再び活力源を汲み取るべき「大地」が示唆される。最後に、派生的に、教育思想史研究のあり方についても、簡単に言及した。
著者
菱刈 晃夫
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-17, 2008-09-12 (Released:2017-08-10)

人間とは、はたして「理性」的動物なのか、それとも理性的「動物」なのか。理性に力点を置くか、動物に力点を置くか。教育をどう捉えて実践するかは、結局、このアクセントの違いに大きく左右されよう。西洋文明の根底にあるキリスト教による教育思想を振り返るに、「神」と繋がる理性、霊性をそなえるとされる人間が、いかに動物としての自己自身と関係しながら「人間」になれるのか、あるいは、この世を人間化、文明化、道徳化させていくのかが模索されてきた。問題は、人間に元来そなわる、理性以前の動物的なもの-感情、情感、情動、熱情、情緒、情意、そして情念など-すなわち、からだで感じる「情」と、どう関わるかである。近代教育学のベースにあるキリスト教的な教育論が、情念との関わりのなかでどのように生成してきたのか、主にルターとその周辺(エラスムスやメランヒトンなど)を手がかりに明らかにしつつ、教育思想史を振り返ってみたい。