著者
藏冨士 寛
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.21-36, 2002

横穴式石室内に設けられた棚状施設である石棚は,環瀬戸内海を中心とする西日本に分布し,その分布には何らかのつながりが想定できる。本稿では,列島全体からみた石棚の持つ意義について考察を行なう前作業として,九州における石棚の系譜について整理を行い,併せて当地域における石棚の持つ特質について述べる。<BR>石棚と石室壁体,特に腰石との関係を分析すれば,九州の石棚は,1)石屋形からの系譜を持つもの 2)石屋形以外の系譜を持つもの,に二分できる。1)の石棚を持つ横穴式石室は,石材として凝灰岩など加工に適したものを用いており,石棚の架構には石工等の専門工人が関与した可能性がある。この両者の違いとは,築造に携わった工人の系譜の違いとも理解できよう。<BR>また九州の石棚には,1)主要な分布地の周辺には石屋形が存在すること 2)石棚の出現に対し,石屋形のそれは先行すること,といった現象が認められる。このことは,構造的な系譜がどうであれ,石棚の成立には,石屋形の存在が大きな影響を与えていることを示す。6世紀前葉,熊本県北部地域(菊池川流域)を起点として,1)石屋形 2)彩色壁画 3)複室構造,といった各要素が九州各地に拡散,定着するが,石棚の出現や展開もこの一連の現象の中に位置付けることが可能であり,その背景には,菊池川流域集団(火君?)の存在が想定できる。列島における石棚の分布とは,「火君」「紀氏」など,海上交通に長けた集団の交流による所産といえよう。<BR>このように,菊池川流域集団は考古学的な諸現象からみれば,大きな影響を九州各地に与えてはいるが,彼らの残した墳墓はさほど大きいものではない。彼らがこのような影響力を持ち得た要因は,陸路を通じた交流のあった八女地域集団の動向も含めて考察すべきであろう。