著者
藤嶋 康隆
出版者
九州大学
雑誌
人間科学共生社会学 (ISSN:13462717)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.103-124, 2006-02-10

本稿の目的は優越要因説を擁護することである。優越要因説はマルクス主義社会理論の代名詞と呼ばれるほどマルクスの諸理論と結びつけられて考えられることが多い。マルクスの諸理論は現在あまり着目されないが、筆者は特にマルクス流の経済を基盤とした優越要因説はあらためて再考されるべきであると考えている。議論をすっきりさせるためにドゥルーズの議論に示唆を得て、微分法や導関数という数学的方法によってマルクスの諸理論とパーソンズ的なシステム論を対比させた。次に「偶然」をめぐるラカンとデリダの議論を検討し、人間には偶然を必然にかえるメカニズムが存在する点でラカンを擁護する一方、「偶然」を「偶然」のまま扱うデリダの議論をルーマンのシステム論と親和的なもとでると解釈した。しかし賃労働によって得た貨幣によって成り立つ資本制経済のもとでは意識システムの行う観察は経済システムの行う観察と重なる場合が多く、結果的に社会を経済システムから観察するというマルクス流の優越要因説が人間の意識にとって支配的であり、避けられないということを論じた。
著者
藤嶋 康隆
出版者
九州大学
雑誌
人間科学共生社会学 (ISSN:13462717)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.81-96, 2002-02-15

本論文の第一の目的は,精神分析学,特にフロイトーラカン(派)の社会理論を古典的な社会理論であるデュルケムの社会理論と接続させて理解することによって,フロイトーラカン(派)を従来の社会理論の中に位置づけることである。本論文の第二の目的はこのようにフロイトーラカン(派)をデュルケムの社会理論と接続させることによってラカン派やデュルケムを含めた既存の社会理論の限界点を明らかにすることである。その際,問題になるのは社会学において「他者」概念がどのように論じられてきたかである。デュルケムやラカン派の社会理論を概観して明らかになったことは,これまでの社会理論では「他者」概念が主体にとって「内的な環境」にとどまり,「絶対的」な「他者」概念が欠如しているということであった。既存の社会理論では自己の内的な環境としての「相対的」な他者については十分に論じてきたが,自己にとって非対称的で,「私にとってこの同じものが相手にとって別のことを意味するような」絶対的な他者の視点については論じてこなかった。これからの社会理論においてはこうした絶対的な他者概念こそを理論化することが必要になるであろうとして結論とした。