著者
藤田 伸也
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.161-170, 2003-03-25

詩と書と画に優れることを意味する詩書画三絶は中国文人の理想であった。書画と併称されるように絵画は書と密接な関係があり、書と画は根本的に一致すると考えられてきた。詩文は直接的に画題を絵画に提供する場合もあるが、両者は情景描写という点で共通することから、画を「無声詩」、詩を「有声画」と呼んできた。本論は詩書画三絶の視点から南宋画院の絵画について考察を試みた。文人画の理論をあえて宮廷絵画に当てはめることにより、南宋画院絵画の性格が明確となるのではないかと考える。まず詩書画三絶とは何かについて、主要画史での三絶の用例を追いながら述べ、次いで南宋画院のあり方に強い影響を与えた徽宗朝画院の状況を考察する。そして南宋画院の初期を代表する李唐と中期の画院最盛期の中心画家馬遠の事例分析を通して、画院画院の画と詩および書との関係について述べその芸術性を探る。
著者
藤田 伸也 Fujita Shinya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.109-123, 2010-03-28

明治のころ、三重県の北勢地方では万古焼が四日市を中心に盛んに焼かれ、全国的にその名は知られて、商業的にも成功していた。しかし現在、万古焼は美濃や瀬戸に比べて知名度は低く、陶磁の産地としての規模も小さく、また陶芸作家の活動も卓越しているとはいい難い。この論考では明治以後現在に至る万古焼の道程を振り返り、日本近代陶芸の発展の様相を探り、芸術と産業の間で揺れ動く陶芸の可能性について万古焼を中心に考える。まず今回は明治時代から昭和時代前半期戦時下までの万古焼の歴史を振り返る。