著者
蝦名 裕一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100102, 2016 (Released:2016-11-09)

1.はじめに 本研究は, 江戸時代の絵図や明治期の地籍図といった絵図資料に基づいて, 人工改変以前の地形や景観を復元し, これを用いた歴史災害の分析を実施するものである.今日, 我々が目にしている景観は, いわゆる河川改修や護岸工事などの人工改変によって, 本来の自然地形とは大きく異なっている場合が多い. 今回は, 1611年の慶長奥州地震津波に関する歴史記録・伝承が残されている宮城県岩沼市と岩手県宮古市を対象とする. 両地域の江戸時代の絵図や明治期の地籍図を用いて地形を復元し, この復元地形をふまえて歴史記録・伝承の妥当性を検証していくことにする. 2.歴史資料に基づく地形復元 2.1 宮城県岩沼市の地形復元 岩沼市地域の地形を示す史料として, 1662年(寛文2年)に作成された『田村右京亮知行境目絵図』(仙台市博物館所蔵)がある. これによれば, 「岩沼町」の南側で阿武隈川は一度分岐して再び合流していることがわかる(蝦名2011). さらに, 現在の阿武隈川の川筋となっている流れには「新川」と記されており, 内陸側の川筋がかつての本流であることがわかる. ここに描かれている中州は, 現在の岩沼市吹上地区であり, 従来は亘理郡の領域であったが1947年に当時の岩沼町に編入された地域である. すなわち, かつて阿武隈川の本流はより内陸側, より千貫山に近い地点を流れていたことが確認できる(図1). 2.2 岩手県宮古市の歴史地形の復元 岩手県宮古市の市街地は閉伊川の河口部に位置している. 閉伊川は市街地の南側を西から東に流れており, 山口川が横山八幡宮付近で合流している. 宮古地域の歴史地形の復元にあたっては, 下記の絵図資料を使用した. ①1857年「御領分海陸分間絵図」(もりおか歴史文化館所蔵)…1857年(安政4年)に盛岡藩が作成した絵図 ②1874年「陸奥国閉伊井郡宮古村書上絵図面」(岩手県立図書館所蔵)…1874年(明治7年)の宮古村絵図. 地租改正事業にともなう地券取調地引絵図として作成されたものと考えられる. ③1916年「5万分1地形図」…1916年(大正5年)に大日本帝国陸地測量部が測図したものである. ①, ②, ③の絵図を比較した時, 最も特徴的なのが閉伊川の可耕地形の変化である. ①・②の段階で描かれている閉伊川の河口が, ③の段階では埋め立てが進み, 砂州が地続きとなっている. (蝦名ほか2015)また, 閉伊川は横山八幡宮付近で大きく蛇行するとともに, 山口川は市街地の中心を経て閉伊川に合流するなど, 河川の流路が現代とは大きく異なっていることが確認できる. (図2) 3.慶長奥州地震津波の記録・伝承の検証  1611年12月2日(慶長16年10月28日)に発生した慶長奥州地震津波は, 現在の東北地方太平洋沿岸に大きな津波被害をもたらした. 徳川家康が記した『駿府政事録』という史料には, 伊達政宗の家臣が語った話として, 政宗の家臣らが舟で沖に出ていた時に津波に遭遇し, 「千貫松」と呼ばれる松の側まで流された, と記されている. この「千貫松」は, 現在宮城県岩沼市南部の千貫山付近の地名であると考えられる. また, 『古実伝書記』という史料には, 慶長奥州地震津波の際, 閉伊川を河川遡上した津波が小山田・千徳まで到達, 小山田から八木沢に向かう道に五大力舟が流れ着いたと記されている. さらに, 宮古市田の神には平成元年に建立された「一本柳の跡」という碑があり, 江戸時代に発生した津波によりかつてこの場所に存在した一本柳に舟を繋ぎ止めたという伝承が記されている. これらの史料・伝承にみる津波痕跡地点であるが, いずれも2011年に発生した東日本大震災における津波浸水範囲よりさらに内陸部に位置している. この事実のみでは, 慶長奥州地震津波の地震規模は東日本大震災のそれを上回るものであったといえる. しかし, 復元地形を元に考えた場合, これらの津波到達点は①『駿府政事録』の記述は, かつて千貫山寄りを流れていた阿武隈川の旧流路, ②『古実伝書記』に記される小山田-八木沢間の津波到達は小山田の山沿いを流れていた閉伊川の旧流路, ③かつての宮古町の市街地を流れていた山口川の旧流路を, 津波が河川遡上していた可能性によって説明することができる.