著者
松浦 誠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100076, 2016 (Released:2016-11-09)

1.はじめに 参詣は交通や都市計画,経済などと密接に関係しており,地理学においても重要な研究対象となっている。日本の伝統的な社寺参詣に関しては特にルートが注目され,田中(1987)や,小野寺(1990),小田(2007)などによって研究されてきた。その結果,交通機関の近代化に伴い,より利便性の高い手段を利用するように参詣ルートが変化した点や,参詣の前後に観光目的の社寺名所旧跡巡りが行われていた点が明らかになった。 一方,新宗教の参詣については,地理学以外の学問分野を含めても、ほとんど研究が行われていない。近世末期以降に新宗教が成立すると,それまで特別な往来がなかった地域へ多数の参詣者が流入し,それに伴って交通網の整備や都市機能の変革がもたらされた。新宗教の勢いが衰えたと言われる現在でも,大規模な参詣が定期的に行われ,教団本部や参詣途中の経由地,交通機関に影響を及ぼしている。よって,新宗教の集団参詣は,関連する地域への影響が多大な事柄であり,地理学的に研究すべき重要な課題である。この問題関心から,松浦(2016)では戦後の天理教信者による団体参詣(以下,団参とする)の変遷と,教会による団参の事例を明らかにした。   2.研究目的 本研究では,松浦(2016)で扱わなかった明治期から昭和戦前期までを対象とする。この期間は,天理教の教団形成から一派独立,教勢拡大期にあたる時期である。天理への団参が成立・慣例化する過程を明らかにし,聖地・地場や参詣に対する天理教信者の意識の変化と本部からの働きかけについて考察することを目的とする。また,教会間の縦のつながりが重視されていた天理教において,都道府県単位の教務支庁が設置された経緯と,設置による参詣行動やその他の宗教活動への影響を明らかにする。   3.研究方法 はじめに,明治24(1891)年創刊の天理教の広報誌「道の友」と昭和5(1930)年創刊の「天理時報」に掲載されている団参の報告・募集記事から,各時代の団参の傾向と団参に対する天理教本部の働きかけを明らかにする。 次に,対象期間内の各教会の日誌や教報誌,団参記念の写真帳などから,団参の旅程や実施時期,参加人数,参加者の性別や年齢の傾向など,団参の実態を明らかにする。また,団参及び地場に対する教会,信者の意識を考察する。これらの史料は教会ごとに作成状況や残存状況が異なる。今回は入手できた益津大教会(静岡県),東大教会(東京都),新潟県内の湖東大教会部属教会及び新潟教務支庁と各教会の上部教会の史料を利用した。特に,新潟県内の湖東大教会部属教会と新潟教務支庁の史料からは,天理教における地域意識の形成過程と要因,地方居住者の移動行動への影響を考察する。  4.まとめ 天理教における団参は,教団本部の教会施設建設のための労働力確保という俗的要因と大規模分教会による教勢拡大の報告という信仰的要因から生じた。そして,昭和11(1936)年の教祖50年祭に伴う別席の聴講及び授訓の活発化と普請の労働力確保という本部の思惑から,これまで容易に参詣を行なえなかった遠方の小規模団体を本部へ集めるため,教務支庁に輸送機能を付与した。また,新潟県教務支庁による団参には,オプショナルツアー形式の観光が含まれ,これには鉄道会社が影響を与えていると考えられる。 詳細は,発表で報告する。
著者
山神 達也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100147, 2016 (Released:2016-11-09)

Ⅰ.はじめに通勤流動は居住地と従業地との間の就業者の移動のことを指し,通勤流動の完結性が高い空間的範域を通勤圏という。この通勤圏では労働力の再生産がほぼ完結するとともに日常の消費需要がほぼ満たされることから,通勤圏は日常生活圏を代表するものとみなされている(成田1995)。また,行政上の各種サービスは住民の日常生活を踏まえて提供されることが多く,行政機関の多くは管轄区域を設定している。この点に関し,成田(1999)は近畿地方を対象として,通勤流動で設定される日常生活圏と各種行政機関の管轄区域との対応関係を検討し,多くの圏境が日常生活圏と一致することを明らかにした。しかし,成田(1999)以降,平成の大合併が実施されたことから,現在でも同様の関係を見いだせるのか,検討の余地がある。以上を踏まえ,本研究では,和歌山県を対象として,通勤圏と各種行政機関の管轄区域との対応関係を検討したい。Ⅱ.通勤流動と通勤圏の設定図1は,和歌山県下の各市町村からの通勤率が5%を超える通勤流動を地図化したものである。この地図をもとに通勤流動の完結性が高いといえる範囲を定めて通勤圏とし,その中心となる市や町の名前を付した。その結果,和歌山県下で7つの通勤圏を抽出することができた。これらの通勤圏のなかで特徴的なものを整理すると,有田圏は自治体間相互の通勤流動が多く,雇用の明確な中心地のない状況で全体的なまとまりを形成する。また,この圏域の全ての市町から和歌山市への通勤流出がみられ,全体として和歌山圏に従属している。次に橋本圏は,橋本市が周辺から就業者を集める一方,橋本市も含めて全体的に大阪府への通勤流出が多い。以上の詳細は山神(2016)を参照されたい。Ⅲ.通勤圏と行政上の管轄区域との関係Ⅱで確認した通勤圏は各種行政機関の管轄区域とどう対応しているのであろうか。ここでは,和歌山県における二次医療圏,およびハローワーク和歌山の管轄区域との対応を検討する。二次医療圏は広域的・専門的な保健医療サービスを提供するための圏域であり,生活圏をはじめとする諸条件を考慮して設定される(和歌山県『和歌山県保健医療計画』2013年)。また,ハローワークは就職支援・雇用促進を目指す機関であり,通勤流動そのものと密接にかかわるものである。図2は,通勤圏(図1)・二次医療圏・ハローワーク管轄区域の境界がどれだけ一致しているのかを示したものである。二次医療圏では,岩出市と紀の川市で那賀保健医療圏が設定される点と新宮保健医療圏に古座川町と串本町が含まれる点に通勤圏との違いが現れる。一方,ハローワーク管轄区域では,海南市と紀美野町で「かいなん」が設定される点と「串本」にすさみ町が含まれる点に通勤圏との違いが現れる。また,北山村は,通勤圏としては三重県とのつながりが強いが,二次医療圏・ハローワーク管轄区域のいずれにおいても新宮の管轄区域に含まれる。このように,通勤圏・二次医療圏・ハローワーク管轄区域の間には若干の違いが認められるものの,基本的に3つの境界が重なる部分が多い。また,境界が重ならない地域として和歌山市周辺が挙げられるが,これは和歌山市の通勤圏を細分する形で管轄区域が設定されていることによるもので,通勤圏の境界をまたぐような管轄区域の設定はなされていない。したがって,通勤圏は,平成の大合併後も日常生活圏を代表するものとして,各種行政機関の管轄区域との対応関係も強いといえる。発表当日は他の行政機関の管轄区域を複数取り上げ,それらも検討の対象とした結果を報告したい。
著者
シュレーガ ベンジャミン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100139, 2016 (Released:2016-11-09)

1 初めに 日本の養鶏産業は、昭和時代から徐々に産業型に変動してきた。今日、インテグレータが中心となり現在の養鶏業界を大きく形作っている。本発表では、日本の養鶏業界の展開における、鶏の飼育方法と鶏肉の食文化の変容過程、および生産と消費の繋がりについて分析する。本発表では特にcommodity chain(コモディティチェーン)の移り変わりに着目し議論を進める。2 鶏肉食の展開日本の食文化において、卵は鶏肉に先駆けて一般的な食卓に普及した。昭和初期、カツやケーキなどの洋食が増えてきた流れの中で、卵ブームがあった。国内の養鶏は副業としてなされることが多かったことから、小規模養鶏は自給のために行われ、販売されるのは過剰分の卵と鶏肉が主であった。増加する卵の需要に対応するように、中国から輸入を行うようになった。 その輸出入の差に対して、日本政府が養鶏業界の支援に乗り出し、この戦略により5件の養鶏試験場が建立され、養鶏農家への補助金のシステムが創立された。北村(1987)によると、1921年から1935年にかかけて、養鶏農家一戸あたりの平均羽数は8.7羽から18.2羽へ増加し、それに伴い、全国の養鶏羽数は2,773万羽から5,170万羽に増加した。しかし生産の大規模化が進むにつれ、飼料や流通ルートの整備といった問題点も多数現れてきた。 養鶏業界の日比野(1941)らが提案したように、第二次世界大戦中において、「満州新養鶏法」という大規模の飼育方法が目指された。ただ、この計画は満州産の飼料に依存したことにより様々な面において失敗した。大戦直後は、自給率を保護するために「草鶏」という飼育方法が広まった。輸入飼料への依存の脱却のために多くの農家が飼料と鶏、両方の管理を行った一方で、米国国内における飼料の生産過剰問題があり、結局、日本における米国の飼料は輸入は続けられた。輸入飼料の流通は大規模農業企業を通して行われたため、そのような大規模企業の国内の養鶏産業における役割の拡大につながった。 飼料流通の整備とともに、養鶏の産地の移動も行われた。長坂(1993)が論じたように、戦後は都市周辺におけるブロイラー産業が増加したが、70年代以降は遠隔地域に移動した。後藤(2013)によると、遠隔地域の中でも、インテグレータの指導のもと鹿児島県と宮崎県が日本のブロイラーの大産地として形作られた。冷蔵方法の整備も進み、南九州から東京の中央市場までの流通が進んだ。 ブロイラーの生産が増加する一方で、消費需要の伸び悩みが業界の課題となった。三菱株式会社がこの問題を把握し、米国のケンタッキーフライドチキン本社と結びつきを深めたことで日本ケンタッキー社が設立された。日本ケンタッキーは宣伝広告を通して消費者にブロイラーの魅力を伝えた。さらに、カーネルサンダースとクリスマスのキャンペーンが大ヒットとなった。文化および生産においても日本ケンタッキーが鶏肉の消費において果たす役割は重要なものであった。Dixon(2002)がコモディティチェーンアプローチを用いて評論したように、小売業を通して生産と消費の再編成が行われたのであった。 経済成長と同時にブロイラー産業が激増し、さらに90年代以降はグローバル化の影響で安価のブロイラーの輸入増加により、養鶏産業は激しい競争となった。農林水産省によると、ブロイラーの平均羽は1975年から2005年にかけて7,600羽から21,400羽と約3倍に増加した。現在、ブロイラーの平均羽は56,900となった。 このように、日本における養鶏産業の展開には国内外の様々な経済そして政治的な要因が影響を及ぼしてきた。本発表では、上述のように、まず飼料配分と食文化の変容において米国が果たす役割について述べる。さらに、近年における食の安心の問題への関心の高まりとともに着目される。食における「ブランド」の働きを考察することで、国内の鶏肉の生産と消費がどのように展開されてきたのかを論じる。3 文献日比野兼男. (1943) 満洲新養鶏法.鶏の研究社.北村修二. (1987) わが国における養鶏業の地域的展開.名古屋大学文学部研究論集 p149-174.長坂政信.(1993)アグリビジネスの地域展開.古今書院.後藤拓也. (2013) アグリビジネスの地理学, 古今書院.Dixon J. (2002) The changing chicken: chooks, cooks and culinary culture: UNSW Press.
著者
北島 晴美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100158, 2016 (Released:2016-11-09)

1.はじめに発表者は,心疾患,脳血管疾患,肺炎,老衰の死亡数・死亡率の季節変化について報告している(北島・太田,2009a, 2009b,2011, 2012a, 2012bなど)。全死亡数の3割弱を占め,死因第1位の悪性新生物による死亡数は,季節変動しないが,第2位~第5位の死因(心疾患,肺炎,脳血管疾患,老衰)による死亡数は,いずれも冬季に多く夏季に少ない傾向を示す。冬季の気温は上昇し,住居の暖房が完備し,気密性が向上し,居住環境は好転しているが,最近でも死亡数の冬山は消滅しない状況である。死亡数の多くは高齢者であり,高齢者には季節の推移による気温変化が,依然として寿命を左右する要因といえよう。2009年以降の最新のデータにより,主要死因(悪性新生物,心疾患,肺炎,脳血管疾患,老衰)別に,毎年の月別死亡率の季節変化傾向と,死亡率の経年的変動について,分析した。 2.研究方法使用した死亡数データは,人口動態統計(確定数)(厚生労働省)である。死亡数が多い75~84歳85~94歳,95歳以上の3年齢階級を対象とし,季節変化を見るために,死因別,年齢階級別,月別死亡率(全国,総数)を算出した。北島・太田(2011)と同様に,各月死亡率は,1日当り,人口10万人対として算出した。人口は各年10月1日現在推計人口(日本人人口)(総務省統計局)を使用した。 3.主要死因別死亡率の季節変化と推移(1) 悪性新生物(図1)3年齢階級とも,他の死因のような明瞭な季節変化は見られないが,84~95歳の死亡率は,図1のように,わずかに夏低く11・12月に高い傾向がある。75~84歳の死亡率は2009年から2014年にかけて,低下傾向がみられる月が多い。  (2) 心疾患(図2)3年齢階級とも死亡率は冬季に高く,夏季に低い傾向がある。75~84歳,85~94歳の死亡率は,2009年から2014年にかけて,多くの月で低下傾向がみられる。  (3) 肺炎,脳血管疾患肺炎,脳血管疾患の死亡率は心疾患よりも低いが,季節変化,経年変化とも心疾患死亡率と類似傾向である。  (4) 老衰3年齢階級とも死亡率は冬季に高く夏季に低い傾向がある。3年齢階級の死亡率は,2009年から2014年にかけて,全月で上昇傾向がみられ,他の主要死因とは対照的である。 4.各月気温と死亡率の関係2009~2014年の日本の月平均気温偏差(気象庁)が特徴的な年・月(高温,低温)について,全国の死亡率のほか,都道府県別死亡数デーを確認した。
著者
平野 信一 山田 努 杉原 真司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100144, 2016 (Released:2016-11-09)

【目的】 東北地方太平洋沖地震の津波から5年余りが経過したが、沿岸域はいまだに東電福島第一原子力発電所事故による放射性物質汚染にさらされている。本研究では、阿武隈川水系などから仙台湾に流入する堆積粒子と原発事故由来の放射性物質の移動・拡散・濃縮を明らかにする。 【方法】 宮城/福島県境沖から仙台港までの仙台湾沿岸域においてこれまで10回(平成24年3月~平成27年9月)にわたり底質試料をエクマンバージ型採泥器、フレーガーコアラ―を使用し採取した。採取試料の堆積物放射能の測定に際しては、九州大学アイソトープ統合安全管理センターのゲルマニウム半導体検出器を使用し、経時変化・深度変化について論じた。 【結果】 試料の137Csの測定結果から、阿武隈川河口沖では、他の海域に比べて放射性セシウムの集積が顕著であることが明らかとなった。この海域においても、より陸地側(水深の浅い)の地点よりも、水深約20 mの地点(B3地点)で集積が進んでいる。これは、阿武隈川集水域で沈着放射性物質の自然除去が継続的に進行しているためと考えられる。集水域で放射性セシウム(134Cs、137Cs)の地表移動過程を経時的に観測した結果から、集中降雨時に大量の放射性物質が河川系を経て流出することが明らかとなっている(Minoura et al., 2014)。沈着放射性セシウムは、細粒物質(フミン、粘土粒子など)に付随している。これら浮遊物が増水時に河川を経て河口から流出し、陸水が海水と混合する過程で凝集し阿武隈河口沖に沈積したと解釈される。セシウム濃度の増大傾向は、集水域における放射性物質が降水により易動的となり、地表流水により効果的に排出されている可能性を示唆している。河口沖で凝集・沈積した細粒堆積物は、再移動作用が波及しない限り、緩やかな生物擾乱を受けながら集積してゆく。この堆積効果により、地表沈着放射性物質は河口沖に埋積される。しかし、強力な底層流を促す沿岸流の発達などは、こうした底質を大規模に侵食する可能性がある。その場合には、埋積された放射性物質の急激な拡散が懸念される。 また、名取川河口沖、特に水深20 m付近のD4地点でも放射性セシウムの中濃度集積が進んでおり、名取川上流域および河口沖でも、それぞれ阿武隈川集水域および河口沖における同様な過程が進行しているとことが予想される。 このように、大河川河口沖では、内陸から流送された放射性物質が水深約20mの海底に堆積しホットスポットを形成していた。
著者
長谷川 奨悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100064, 2016 (Released:2016-11-09)

近世における「名所図会」資料や地誌は、多くの大学附属図書館をはじめ、国立国会図書館や国立公文書館、各都道府県や市町村立図書館や資料館において、その地域の風土性や、場所や風景の過去の姿を知ることができる郷土資料として収集・公開が進められてきた。しかし、管見の限りでは、これらの資料の編纂動向とその特徴をめぐる議論は、三都のほか、奈良や伊勢など多くの地理的メディアが編纂された地域では検討がなされてきたものの、近世日本というスケールでの考察は、ほとんど試みられることはなかったと思われる。強いてあげるとすれば、戦前期の高木(1927、1930)の仕事に注目できるが、これは高木家の家蔵資料について、その書肆情報を旧国単位で編年したものであり、ここにとりあげられていない資料も多く認められるなど、これをもって近世名所地誌本の全体像をとらえることはできない。本発表では、蝦夷と琉球も含めた近世全体の編纂・刊行動向の全体像について考察することを目的としたい。〈BR〉2 考察方法 上記の問題に取り組むにあたって、以下のような手順で考察をおこなう。まず、現在最も体系化されていると判断できる高木(1927、1930)の成果を基盤としつつ、各機関の郷土資料目録を用いて地域の編纂動向の全体像をとらえる。そして、所蔵資料や公開されたデジタルデータを確認し、その書誌情報や、取りあげられる内容を検討し、旧国域を単位とする近世名所地誌本のデータベースの作成を進めた。ここでは、高木の地誌目録にみえる「紀行文」や「歌集」などは対象から外した。また、四国巡礼や西国巡礼、秋里籬島選『東海道名所図会』(1797年刊)のような国単位を超える広域な地域で編纂されたものは、今回のデータベースには反映させていない。このように進めていくと、近世日本において編纂された地誌や名所案内記(名所図会)は、現在把握できているだけでも計678点ほどになる。次いで、これらを(1)17世紀末まで、(2)18世紀前半、(3)18世紀後半、(4)19世紀初めから幕末まで、(5)編纂時期不明という5つの時期に区分した考察をおこなうことで、それぞれの地域における大まかな編纂動向を把握できるものと考える。〈BR〉3 考察 上記のように近世日本における「名所図会」資料や、地誌の編纂・刊行動向を旧国単位で整理すると、武蔵国(江戸)の計89点、山城国(京)の計50点、摂津国(大坂)の計49点と上位は三都が占める。次いで、陸奧国(仙台・松島)の計40点、大和国(奈良)の計29点、尾張国(名古屋)の計29点と続く。例えば、厳島のある安芸国では計17点となる。これらについて、編纂時期不明をのぞく4つの時期ごとに分析すると、19世紀には、これまで編纂が無かった安房国で計2点、讃岐国で計7点など、新たに計6ヶ国において確認できるようになり、この時点で大隅国を除く全国において、少なくとも1点以上の新規編纂を確認できるようになる。 ただし、大隅国内の場合、鹿児島藩領について編纂するもののなかに立項・叙述を確認できる。これが編纂される場所は、藩政の中心地である鹿児島であるため、大隅に関する記事も旧国単位でみれば、薩摩国において編纂されたものに含まれる。このような、領国支配の中心と周辺部、ないし支藩領域との関係性は、周防国と長門国などにおいてみられ、大藩の城下町における近世地誌編纂の実践をめぐる特徴的な傾向の一つといえる。 全国的な編纂の実践の拡大をめぐる社会的背景には、(1)三都周辺で始まった地理的メディア編纂の実践が、地方都市へと伝播していった結果、これらの編纂を試みる知識人層の裾が広がったこと。(2)幕藩領主や地方書肆の意向など、編纂の実践ができる態勢に向かっていたこと。(3)その実践をめぐる社会的な需要が拡大していたことなどが考えられる。「名所図会」や地誌を編纂する際に設定される領域性や、叙述の場所性めぐる問題は、編纂者側の編纂思考や依頼者の意図が反映される。そこで、版元の特定や編纂者に対する考察を進めることが今後の課題となろう。〈BR〉なお、本発表内容は、平成25~28年度科学研究費助金・基盤研究(A)課題番号25244041 研究代表者:平井松午(徳島大学)「GISを用いた近世城下絵図の解析と時空間データベースの構築」の研究成果の一部である。
著者
春日 千鶴葉 柏木 良明
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100058, 2016 (Released:2016-11-09)

郷土料理は以下のように定義されている(木村,1974)。(1)ある地域に古くから行われている食形態で他地方にはみられない特色をもち、その発生が明治以前であるものである。ただし、北海道に限り明治末期までに備わった食形態を取り上げる。(2) 現在は比較的広範囲の各地の人々に食されているが、江戸時代までは限られた範囲の地域の民衆生活のみ定着していた食形態であるものである。 また、郷土料理は地方の特産品をその地方に適した方法で調理したものである(岡本,1987)。その中で、食の暮らしの知恵が育まれ、おいしく健康に良い食べ方などが工夫されている(成瀬,2009)。種類や調理方法における地域性は、地形、気候、地域ごとの生産物といった自然的要因だけでなく、地域の人々の気質、宗教、産業技術の発達状況、時代・地域社会の思潮などの人為的要因によっても形成される(石川,2000)。そして、郷土料理のタイプは(1)その土地で大量に生産される食べ物をおいしく食べようと工夫したことにより生まれたもの(2)地方の特産物を利用してできたもの(3)その地方で生産されない材料を他地域からもってきて、独自の料理技術を開発して名物料理に仕上げたものに分類される(安藤,1986)。さらに、郷土料理は伝統行事に欠かせないものにもなっている。しかし、生活様式の変容などにより、その地域性が失われつつある(成瀬,2009)。 長野県の郷土料理の一つであるおやきはもともと長野県北部の農村の発祥である。かつて、囲炉裏の灰で焼いたことから「お焼き」と名付けられた。作り方は味噌で味付けしたナスなどの野菜を餡として小麦粉の皮で包み、蒸すあるいは焼く。その後、1982年におやきが手打ちソバ、御幣餅、スンキ漬、野沢菜漬とともに「食の文化財」に指定された。現在では、長野市、小川村をはじめおやきの専門工房や販売店が県内全域の広範囲に多数存在している。その上、おやきは地域差が県全域を通じて見られ、地域性がよく見られるのも特徴である。 おやきに関する研究では、ある特定の地域における特性は明確になっているが県内全域でのおやきの実態、特性を示す研究は少ない(水谷ら,2005)。故に、長野県内の中でどのような差異や共通点があるのかも不十分であり、おやきに関する明確なデータも少ない。 そこで、本研究では長野県全域を調査地域として、各地域におけるおやきの特性について比較調査するとともに、なぜ地域差が見られるのかを明らかにする。また、考察の際に五平餅との比較も取り上げる。 結果として長野県内は北信、中信、東信、南信の4つの行政区分である。調査方法は主に文献調査、聞き取り調査(25店舗)、おやきの購入・試食、写真撮影による。 北信地方で119店舗、東信地方で27店舗、中信地方で49店舗、南信地方で20店舗、計215店舗あることがわかった。特に、北信地方だけでも全体の約5割をも占めている。東信・南信では店舗自体は非常に少ない。 おやきの製法には、蒸かし、焼き蒸かし、焼き、揚げ焼きなどの種類がある。北信では小麦粉の味を生かしたおやきで蒸かしたものが多い。しかし、長野市から離れた山村地域に行くと、ほうろくの上にのせて焼く製法が見られる。東信地方では、蒸かす製法が多い傾向にあり、主に上田市に多く店舗が集中している。中信は南北に差異があり、北側は昔ながらの焼き製法、南側は蒸かし製法で作られている。南信では生地に砂糖を入れ甘く仕上げて、ふくらし粉を使用し蒸かす。 全域を通してノザワナ、ナス、小豆あんである。また、山菜やクリなど地域でとれた素材を生かして作っている場合が多い。 考察に関して、穀物において、米は盆地の河川流域に集中している一方で長野盆地には水田地帯が少なく畑作を行う傾向にある。小麦は、松本、安曇野で最も多く、全体的に収穫量は北側に集中していることから北側を中心に小麦の文化が定着しているといえる。また、県内では穀物を粉状にして食べる工夫が自然にできる環境にあった。 北部ではおやきをお盆に食べ、南部では11月20日のえびす講で、あんこを多く入れたおやきを作って供える。このようにおやきを食べる習慣が各地域により異なる。 五平餅とは南信地域で食べられる郷土料理のことである。名前の由来は、五平が始めた、神前に供える御幣の形に似ていることなどがあげられる。作り方はうるち米のみを使用して焼く。 五平餅は、「塩の道」である伊那街道沿いの地域に分布しており、終点は塩尻で南北の分岐点となっている。それを境に、南信地方では五平餅文化が存在している。そのため、南信地域にはおやき店舗よりも五平餅店舗の方が多い。その一方で北信地方では五平餅店舗は見られない。
著者
小池 拓矢 鈴木 祥平 高橋 環太郎 倉田 陽平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100082, 2016 (Released:2016-11-09)

1. はじめに スマートフォンの普及にともない、携帯端末で利用する、実空間と連動したさまざまなサービスが登場している。観光分野においては、位置情報を活用したサービスが観光客の行動に影響を与えるだけでなく、観光振興のツールとしても活用されている。そのなかでも本研究では、世界規模で行われている位置情報を利用したゲーム(以下、位置ゲーム)に着目した。 世界規模で行われている位置ゲームの例として、現実空間で宝探しを行う「ジオキャッシング」がある。ある参加者が設置した宝箱を他の参加者がスマートフォンやGPS受信機を片手に探し回るものであり、2016年7月現在、世界には約290万個の宝箱が存在している。また、Niantic Labsが開発・運営する「Ingress」は全世界規模で行われる陣取りゲームであり、この位置ゲームを介して企業のプロモーションや自治体の観光振興が行われている例もある。そして2016年7月、位置ゲームにAR(Augmented Reality: 拡張現実)と人気キャラクター「ポケモン」の要素を加えたアプリゲームである「Pokemon GO」が全世界で順次配信された。このゲームの最大の特徴はスマートフォンのカメラ越しの風景に、ポケモンがあたかも現実空間に存在するかのように出現することである。配信直後からPokemon GOで遊んでいる写真などがSNSに数多くアップされ、メディアでは社会現象として連日このゲームの話題が取り扱われた。 倉田(2012)はジオキャッシングやスタンプラリーのようなフィールドゲームを観光地が実施する意義について、以下の5点を挙げている。 地域の有する観光資源を認知してもらう機会が増える観光資源に付加価値を与えることができる観光客の再訪が期待できる滞在時間の増加が期待できる旅行者が地元の人と言葉を交わすきっかけを生み出せるかもしれない つまり、本来は目を向けられることもないスポットに人々を誘引する可能性を位置ゲームは含んでいる。本研究の目的は、Twitterの位置情報付きツイートをもとに、Pokemon GOの観光利用の可能性について基礎的な知見を得ることである。 2. 研究方法 Pokémon GOの配信がアメリカなどで始まった2016年7月6日以降、Twitterの投稿内容に「Pokemon GO」の文字列が含まれる位置情報付きツイートを、TwitterAPIを用いて収集した。そして、ツイートが行われた位置やその内容について整理し、分析を行った。日本では7月22日に配信が始まっており、「ポケモンGO」の文字列を含むツイートについても分析の対象とした。  3. 研究結果 日本でPokemon GOの配信が開始された7月22日(金)から24日(日)までに日本国内で投稿された位置情報付きツイートのうち、上記の条件を満たすものの分布に関する図を作成した。これによると、Pokemon GOに関するツイートの投稿地点は全国に広がって分布していることがわかった。
著者
高根 雄也 近藤 裕昭 日下 博幸 片木 仁 永淵 修 中澤 暦 兼保 直樹 宮上 佳弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100126, 2016 (Released:2016-11-09)

本研究では、地表面からの非断熱加熱を伴うハイブリッドタイプのフェーンが、風下末端地域の高温の発生に寄与しているという仮説を、3つの異なる手法・視点:独自観測・数値シミュレーションによる感度実験・過去データの統計解析から検証した。このタイプのフェーンは、1)典型的なドライフェーン(断熱加熱)と、2)地表面からの加熱(非断熱加熱)の複合効果によって生じる。フェーンを伴うメソスケールの西寄りの風に沿った地上気象要素の現地観測により、1)の典型的なフェーンの発生が確認できた。このフェーン発生地の風下側の平地における2)地表面からの非断熱加熱の効果に関しては、風下の地点ほど温位が高くなるという結果が得られた。そして、その風下と風上の温位差がフェッチの代表的土地利用・被覆からの顕熱供給(地表面からの非断熱加熱)で概ね説明可能であることが、簡易混合層モデルによるシンプルな計算にから確認できた。この非断熱加熱の存在を他の手法でより詳しく調査するため、WRFモデルによる風上地域の土壌水分量の感度実験、および過去6年分の土壌水分量と地上気温、地上風の統計解析で確認した。その結果、風上側の地表面から非断熱加熱を受けた西寄りの風の侵入に伴い、風下の多治見が昇温していることが両手法によっても確認された。この地表面加熱を伴うハイブリッドタイプのフェーンが、この風の終着点である多治見の高温に寄与していると考えられる。
著者
清水 長正 宮原 育子 八木 浩司 瀬戸 真之 池田 明彦 山川 信之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100044, 2016 (Released:2016-11-09)

東北地方では福島県と並んで山形県に風穴が多い。天然記念物にも指定された著名な風穴がある。これまでに確認された風穴から山形の風穴マップを作成した。県内の風穴は、自然風穴(地すべり地形・崖錐斜面などで自然状態にある風穴)、人工坑道の風穴、明治・大正期の蚕種貯蔵風穴跡(石垣囲)などに大別され、それらを2.5万分の1地形図索引図に示した。あわせて、各風穴の概要なども展示する。
著者
渡邊 瑛季
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100089, 2016 (Released:2016-11-09)

Ⅰ 序論 1980年代後半以降,スポーツツーリズムを取り入れ,地域振興を目指す自治体が先進国を中心に増加している.欧米では,スポーツツーリズムを都市経営戦略として位置づけている例があり(工藤 2009),日本でも1990年代以降,地方行政の施策でスポーツ観光が推進されるようになった(花島ほか 2009; 須山 2010).その多くは,スポーツ合宿誘致やスポーツイベントの開催である. 日本のスポーツ合宿地は,長野県,山梨県など首都圏外縁部に1950年代後半以降立地してきた.一方,1980年代後半以降,宮崎県,北海道,沖縄県など大都市圏から離れた地域にもスポーツ合宿地があらわれた.首都圏外縁部の合宿地に関する地理学的研究はあるが,新たな合宿地に関する研究は限られており,合宿の誘致における行政の主導的役割(須山 2010)の指摘にすぎない. 本研究では,研究事例が無い北海道オホーツク地域を対象に,1980年代後半以降発展してきた新しいスポーツ合宿地の形成過程を明らかにする.研究方法は,ゲストが初めて来訪する際に,ゲストとホストを結びつけた主体である媒介機能と,ホストである宿泊施設の合宿への対応および経営への影響の分析である.Ⅱ オホーツク地域におけるスポーツ合宿受入の端緒 オホーツク地域における夏季のスポーツ合宿は,1985年に明治大学ラグビー部が北見市で合宿を行ったことにはじまる.これは,北見市の誘致活動に加え,北見市出身の同部OBの人脈によるものであった.当時,大学・社会人ラグビー部の多くは長野県菅平高原で夏季合宿を行っていたが,1980年代に高校生チームが増加したことで,1面のグラウンドを複数のチームが同時に使用するなどの状況が生じたため,貸切利用を好む大学・社会人チームの中には合宿地を変更するものが現れた.オホーツク地域には2015年度には284チーム,8,661人(実人数)が訪れた.道外からのゲストの多くは関東地方からの実業団や強豪大学であり,彼らは航空券など高額な合宿費用を負担できる.種目別にはラグビー(3,057人),野球(1,715人),陸上(1,287人)の順に多く,道内と道外チームの人数割合はほぼ半数ずつであった.Ⅲ 媒介機能からみたスポーツ合宿の受入パターン オホーツク地域に来訪するゲストである合宿者と,ホストである宿泊施設を結びつける媒介機能は,行政(受入市町),他チームの指導者が挙げられる.行政の窓口は観光ではなく,スポーツ施設を管理している社会教育関係の部署に置かれていることが多い.網走市の場合,2014年度に合宿を行った49チームのうち,網走市で初めて合宿をした年に,市に問い合わせて宿泊施設を手配したゲストは46ある.このうち他チームの指導者に網走市を紹介された例が8含まれる.一方,市を介さず直接宿泊施設を手配したゲストは3にすぎない.この傾向は,他の自治体でも同様である.これは,行政が合宿誘致事業を先駆的に実施していて,ゲストは行政に合宿申込をすれば,宿泊施設とスポーツ施設の手配が同時にできることが背景にある.練習場所であるスポーツ施設は,公共施設であるため使用には行政に申請する必要がある.Ⅳ 宿泊施設の受入対応および経営への影響 ゲストが宿泊する宿泊施設は,温泉付き大型ホテル,ビジネスホテル,旅館,公営施設など多岐にわたり,受入希望がある宿泊施設に対し,行政がスポーツ施設の利用状況を考慮してゲストを振り分けている.合宿2年目以降は,行政を介さず宿泊施設にゲストが直接予約を行うようになり,合宿地として定着することが多い.オホーツク地域は,流氷,網走監獄,知床などの観光資源がある.しかし,夏季における宿泊者数は1990年代以降,旅行会社による団体旅行が縮小したことで減少しており,この影響を受けた網走市の宿泊施設では,スポーツ合宿の受入が夏季の重要な経営基盤となっている.津別町でも道東では規模が大きく,11月初旬から営業を開始し,スキージャンプ選手などの合宿を受け入れていた津別スキー場が2007年に閉鎖されたことで,宿泊需要が減少した.そのため,夏季のスポーツ合宿は,宿泊施設だけでなく,町内の食材卸・販売店にとっても大口需要となっている.Ⅴ 結論 オホーツク地域では,スポーツ施設の利用と宿泊施設の手配の決定権を行政が握って主導することでスポーツ合宿を受け入れてきた.スポーツ合宿は,宿泊施設の経営に重要で,それ以前のツーリズムに代わるオルタナティブツーリズムとなっている.(本研究は,公益財団法人ヤマハ発動機スポーツ振興財団2015年度スポーツチャレンジ研究助成「日本におけるスポーツツーリズムの空間的構造の解明」(研究代表者:渡邊瑛季)による研究助成の成果の一部である.)
著者
柴山 明寛
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100115, 2016 (Released:2016-11-09)

2011年3月11日発生した東日本大震災で得られた知見や経験を,後世に語り継ぐことで,今後の防災・減災対応・対策を向上させ,今後発生する大規模自然災害の被害軽減に繋がることは明白である.しかしながら,未曾有の大災害となった東日本大震災では,直接的な被害だけでも東日本全域に拡がり,間接被害を含めると日本のみならず全世界規模に影響を与え,本震災で得られた災害に対する知見や経験は膨大である.この膨大の知見や経験を収集し,後世へ残すことが重要な課題となる.そして,単純に震災の知見や経験を記録して残すだけなく,震災記録を教訓として解釈し,被災地の復旧・復興および今後の防災・減災活動に利活用することが重要となる.そこで,東日本大震災の発生直後から数多く団体が震災記録の収集を開始し,震災から5年が経過した現在では,数十の団体が震災記録をWeb上で公開を行っている.その中のひとつの機関として,著者が行っている東北大学の東日本大震災アーカイブプロジェクト「みちのく震録伝」も含まれている. 本稿では,東日本大震災が発生してから5年が経過した現在までの様々な機関・団体が構築した震災アーカイブの動向や特徴について述べた.次に,東日本大震災アーカイブプロジェクト「みちのく震録伝」の概要及び活動状況に着いて述べた.最後に,震災アーカイブの問題点として,震災記録の整理方法及び位置情報を含むメタデータの重要性について述べた.
著者
村山 良之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100135, 2016 (Released:2016-11-09)

自然災害の構造自然災害は,自然現象が暴力的に人間に関与することによって発現する現象である。しかし,自然災害の原因は自然現象のみではなく,個人や社会を含めて重層的にこれを捉えることが,古くから地理学を含む諸科学によって提示されてきた。論者によって違いはあるが,以下のような基本的構造を持つことにおいてほぼ共通している。すなわち,自然災害のきっかけとなる(異常な)自然現象を「誘因」とし,それが発災前からのもともとの条件である「素因」とあいまって初めて災害が発生するというものである。気象学者の高橋(1977)は,このような考え方が古く中村(1934)や小出(1955)によって既に示されてきたことを明らかにした。経済学者,気象学者,河川工学者による共著である佐藤他(1964)は,用語法は独自だが,同様に災害の原因を重層的に捉えることを提唱している。そして佐藤らは,とくに社会的条件を重視している。地理学者の門村(1972)は,上記の素因に地域的要因の語をあて,その内容として土地的条件(地形,地質,地盤,水,植生など)および被害主体の社会経済的条件等を提示している。松田(1977)は,地形,地質(もしくは地盤),土地利用などそこに存在する各種の自然的,人為的要素が形成している複合体を指す術語として,土地条件を挙げ,これと被害主体を合わせて素因としている。さらに,水谷(1987)は,素因を自然素因(地形,地盤,海水)と2段階の社会素因(人間・資産・施設および社会・経済システム)に分けて示した。水谷は,自然災害の主要なものは,誘因が自然素因に働きかけて生ずる洪水,山崩れ,津波などの二次的自然現象が直接の加害力となって,被害が引き起こされるとして,防災はこれらの要因群の連鎖を断つことであると捉える。これら日本の地理学者はいずれも地形学をバックグランドに持ち,被害主体を含む地域を想定し,発災前からの素因を重視し,なかでも地形,地質など物理的条件を土地条件(または自然素因)と呼び,社会的条件とともに取り上げているところに特徴がある。英語圏では,脆弱性vulnerabilityを中心とする分析枠組みが地理学者によって提示されている(Blaikie et al.,1994;Cannon,1994;Hewitt,1997)。自然のインパクトが個人や集団に被害をもたらし災害となるかどうかは,インパクトに対する個人や集団の脆弱性によって決まるとし,その脆弱性は,生計(収入や財産)や準備状況(個人や社会による備え)等によって規定され,さらにその背景にある社会・経済・政治的要因がこれに影響するというものである。インパクトをもたらす洪水や地震等は(Natural)Hazardとされ,これが脆弱性との兼ね合いでDisasterを発生させると捉える。Hazardは誘因に相当し,脆弱性は素因なかでもその社会的側面を指すといえる。佐藤他(1964)と同様に社会的条件をとくに重視した枠組みといえよう。そして土地条件に関連することとしては,人間の関与によってHazardのインパクトを増大/縮小させるとしている。防災教育 -とくに学校教育における防災教育-自然災害はきわめて地域的な現象であるので,学校の防災教育においては,当該地域で想定すべきハザードや土地条件と社会的条件を踏まえることが必要であり,地元の災害史は教材として重要である。災害というまれなことを現実感を持って理解できるという教育的効果も期待できる。当該地域の誘因と素因および災害史の把握は,学校の防災管理や防災教育における「自校化」に必須であり,東日本大震災の教訓の1つである児童生徒による「臨機応変の判断」の土台でもある。しかし,この点がまさに学校防災の展開を妨げているとされてきた。地理学(関係者)が貢献すべきポイントの1つであると考える。当該地域の(自然災害のメカニズムの)理解が,防災行動の必要性の理解ひいては適切な防災行動に繋がると考える。発表者は「防災に関する教育」の課題がまだまだ大きいと考える。自然災害が多い日本で教育を受ける子どもたちは,自然災害に関する知識や防災のスキルを,学校教育(および社会生活)のなかで特段意識することなく身につけられること,これを目指したい。地理教育はこれに寄与できると考える。防災教育が意識されなくなるほどに学校教育に定着することを目標とすべきである。矢守氏の「防災と言わない防災」は目標とも捉えられよう。そして,世界における日本の防災教育の位置と,さらにそのなかで地理学が果たすべき役割を自覚しなければならない。桜井氏の指摘は,「当該地域の理解」に務める地理屋の視線を広く世界にも向けることの重要性を強く示唆している。
著者
本合 弘樹 原山 智
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100032, 2016 (Released:2016-11-09)

1. 上高地の活断層  長野県松本市にある上高地は中部山岳国立公園の南部に位置し,山岳観光地として有名かつ人気が高いエリアである.また,今年の8月11日に『第1回「山の日」記念全国大会』が開催された際には注目が集まった.  その上高地において,南北に延びる活断層の存在が本合ほか(2015)により報告されている.明神地域南部から徳本峠周辺,島々谷南沢にかけて延びる上高地黒沢断層と徳本峠断層である.これらの断層は地形図および赤色立体地図で判読されるリニアメントの形成と密接な関係があると考えられる.  今回,本合ほか(2015)の研究結果を踏まえ,活断層の運動とリニアメントとして表れている活断層地形の形成との関係について考察した結果を報告する.2. 研究手順  本合ほか(2015)では研究地域において,赤色立体地図を用いてリニアメントを判読し,その結果を踏まえ,断層の存在が推定された沢を中心に地表踏査が行われた.そこで明らかになった活断層とリニアメントの位置を比較し,活断層地形の形成との関係について考察した.3. 上高地黒沢断層と徳本峠断層  上高地黒沢断層は本合ほか(2015)により命名された活断層であり,黒沢から稜線の鞍部を通り島々谷南沢にかけて延びている.1998年飛騨山脈群発地震(和田ほか, 1999)の発生に関係したと考えられている上高地断層(井上・原山, 2012 ; 本合ほか, 2015)を切っており,破砕帯露頭で見られる地層の引きずりから逆断層と考えられている.  また、徳本峠断層も本合ほか(2015)により命名された活断層であり,稜線上で鞍部になっている徳本峠を通り島々谷南沢にかけて延びている.上高地断層と接していると推定され,破砕帯露頭で見られる地層の引きずりから逆断層と考えられている.4. 活断層の運動と活断層地形との関係  黒沢が流れる谷地形や徳本峠(稜線の鞍部)の形成に関しては,活断層の運動による破砕帯の形成が関係していると考えられる.破砕帯の内部には断層粘土などが存在し外部より強度が劣るため,雨や雪などによって優先的に浸食が進むと考えられる.  また,上高地黒沢断層の上盤(西)側および徳本峠断層の上盤(東)側それぞれにおける斜面の勾配に違いがあるが,これには美濃帯中生層の沢渡コンプレックスが北東‐南西走向・北西傾斜であることが影響していると考えられる.逆断層の運動で地表に張り出す上盤の地層は不安定になる.上高地黒沢断層の上盤は受け盤,徳本峠断層の上盤は流れ盤であり,後者は地表に張り出す分の地層が層理面で滑動しやすくなるため,前者よりもやや緩やかな斜面を形成していると考えられる.【引用文献】本合弘樹・井上 篤・原山 智(2015) 日本地質学会第122年学術大会講演要旨,一般社団法人 日本地質学会,R5-P-17.井上 篤・原山 智(2012) 2012年度日本地理学会秋季学術大会発表要旨,公益社団法人 日本地理学会,P015.和田博夫・伊藤 潔・大見士朗・岩岡圭美・池田直人・北田和幸(1999) 京都大学防災研究所年報 第42号 B-1,京都大学防災研究所,p.81-96.
著者
花岡 和聖 リァウ カオリー 竹下 修子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100164, 2016 (Released:2016-11-09)

本研究の目的は,アメリカン・コミュニティ・サーベイを用いて,結婚や出産後も就業継続がより容易なアメリカに暮らす既婚の日本人女性を対象に分析することで,自然実験的に,日本人女性の専業主婦志向やその背後の価値規範を,他の6カ国のアジア出身女性との比較の上で明らかにすることである。ロジット分析による分析の結果,雇用獲得と関係する複数の要因を調整した上でもなお,アメリカに暮らす既婚の日本人女性の雇用割合は他のアジア出身女性よりも目立って低いこと,特に教育水準や夫の収入,3歳以下の実子の有無,夫婦間のエスニシティの差異などの説明変数の効果に他国の出身女性とは異なるパターンを見出した。
著者
蝦名 裕一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100102, 2016 (Released:2016-11-09)

1.はじめに 本研究は, 江戸時代の絵図や明治期の地籍図といった絵図資料に基づいて, 人工改変以前の地形や景観を復元し, これを用いた歴史災害の分析を実施するものである.今日, 我々が目にしている景観は, いわゆる河川改修や護岸工事などの人工改変によって, 本来の自然地形とは大きく異なっている場合が多い. 今回は, 1611年の慶長奥州地震津波に関する歴史記録・伝承が残されている宮城県岩沼市と岩手県宮古市を対象とする. 両地域の江戸時代の絵図や明治期の地籍図を用いて地形を復元し, この復元地形をふまえて歴史記録・伝承の妥当性を検証していくことにする. 2.歴史資料に基づく地形復元 2.1 宮城県岩沼市の地形復元 岩沼市地域の地形を示す史料として, 1662年(寛文2年)に作成された『田村右京亮知行境目絵図』(仙台市博物館所蔵)がある. これによれば, 「岩沼町」の南側で阿武隈川は一度分岐して再び合流していることがわかる(蝦名2011). さらに, 現在の阿武隈川の川筋となっている流れには「新川」と記されており, 内陸側の川筋がかつての本流であることがわかる. ここに描かれている中州は, 現在の岩沼市吹上地区であり, 従来は亘理郡の領域であったが1947年に当時の岩沼町に編入された地域である. すなわち, かつて阿武隈川の本流はより内陸側, より千貫山に近い地点を流れていたことが確認できる(図1). 2.2 岩手県宮古市の歴史地形の復元 岩手県宮古市の市街地は閉伊川の河口部に位置している. 閉伊川は市街地の南側を西から東に流れており, 山口川が横山八幡宮付近で合流している. 宮古地域の歴史地形の復元にあたっては, 下記の絵図資料を使用した. ①1857年「御領分海陸分間絵図」(もりおか歴史文化館所蔵)…1857年(安政4年)に盛岡藩が作成した絵図 ②1874年「陸奥国閉伊井郡宮古村書上絵図面」(岩手県立図書館所蔵)…1874年(明治7年)の宮古村絵図. 地租改正事業にともなう地券取調地引絵図として作成されたものと考えられる. ③1916年「5万分1地形図」…1916年(大正5年)に大日本帝国陸地測量部が測図したものである. ①, ②, ③の絵図を比較した時, 最も特徴的なのが閉伊川の可耕地形の変化である. ①・②の段階で描かれている閉伊川の河口が, ③の段階では埋め立てが進み, 砂州が地続きとなっている. (蝦名ほか2015)また, 閉伊川は横山八幡宮付近で大きく蛇行するとともに, 山口川は市街地の中心を経て閉伊川に合流するなど, 河川の流路が現代とは大きく異なっていることが確認できる. (図2) 3.慶長奥州地震津波の記録・伝承の検証  1611年12月2日(慶長16年10月28日)に発生した慶長奥州地震津波は, 現在の東北地方太平洋沿岸に大きな津波被害をもたらした. 徳川家康が記した『駿府政事録』という史料には, 伊達政宗の家臣が語った話として, 政宗の家臣らが舟で沖に出ていた時に津波に遭遇し, 「千貫松」と呼ばれる松の側まで流された, と記されている. この「千貫松」は, 現在宮城県岩沼市南部の千貫山付近の地名であると考えられる. また, 『古実伝書記』という史料には, 慶長奥州地震津波の際, 閉伊川を河川遡上した津波が小山田・千徳まで到達, 小山田から八木沢に向かう道に五大力舟が流れ着いたと記されている. さらに, 宮古市田の神には平成元年に建立された「一本柳の跡」という碑があり, 江戸時代に発生した津波によりかつてこの場所に存在した一本柳に舟を繋ぎ止めたという伝承が記されている. これらの史料・伝承にみる津波痕跡地点であるが, いずれも2011年に発生した東日本大震災における津波浸水範囲よりさらに内陸部に位置している. この事実のみでは, 慶長奥州地震津波の地震規模は東日本大震災のそれを上回るものであったといえる. しかし, 復元地形を元に考えた場合, これらの津波到達点は①『駿府政事録』の記述は, かつて千貫山寄りを流れていた阿武隈川の旧流路, ②『古実伝書記』に記される小山田-八木沢間の津波到達は小山田の山沿いを流れていた閉伊川の旧流路, ③かつての宮古町の市街地を流れていた山口川の旧流路を, 津波が河川遡上していた可能性によって説明することができる.
著者
遊佐 順和
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100159, 2016 (Released:2016-11-09)

Ⅰ はじめに 2013年12月、日本人の伝統的な食文化である「和食;自然を尊重する日本人の心を表現した伝統的な社会習慣」は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関 UNESCO)より無形文化遺産として登録された。ユネスコ無形文化遺産の登録を受け、和食やそのベースとなる「だし」の魅力が、今改めてその価値を見直され、国内外で注目を集めている。和食は、米、豆類、魚、海藻などをもとに作られる一汁三菜を基本とし、ミネラルを豊富に含む昆布をはじめとする海藻の多用、豆類を発酵させた味噌などにより、栄養バランスに優れた健康的な食生活をもたらす。昆布は、だしを利かせた調理法により独自の郷土料理を生み、各地で年中行事とも深い関わりを有し地域に根ざす「食」を育むための一役を担い、日本の伝統的な食文化を支えている。昆布だしに含まれる「うま味」は、食材が有する本来の味を引き立て、さらにだしを利かせた調理により健康的な食生活を実現させている。「食」は人の心を強くつなぎ、「食」をとおした家族との絆や地域におけるコミュニティを育み、食文化を継承させる力を有する。こうしたことから、昆布は食文化と人々のつながりを醸成し、伝統文化を継承するために欠かせない存在だといえる。  だしの代表的存在の一つである昆布は、全国の9割以上が北海道で生産され、日本の伝統文化の変化と生存をつなげる重要な役割を担っている。北海道には主な食用の昆布として、真昆布、利尻昆布、羅臼昆布、日高昆布(三石昆布ともいう)、長昆布および細目昆布などの6種類がある。昆布は、産地の生育環境の違いから品種ごとに形状や食味が異なり、出荷先や調理用途も異なるなどの特徴がある。Ⅱ 問題の所在 北海道は、日本一の昆布の生産地であるが、その消費量は全国的に見て余り多くない。昆布は、富山県、福井県、京都府、大阪府や沖縄県などで、古くからだし利用や食用などにより多く消費され、これらの地域では何れも一世帯あたりの購入金額や消費量が大きいとともに、食利用において地域で継承される独自の伝統的な食文化を有する。 一方で、北海道では昆布の生産量が年々減少している。この背景には、天候や生育環境など自然環境の変化に加え、高齢化や後継者不足による昆布漁師の減少があげられる。産地における生産量の減少は、市場における昆布の販売価格を押し上げ、販売者や飲食店など利用者の商品確保に難しい状況を引き起こし、各地で昆布の消費にも大きく影響する。昆布の消費地では、生産地の昆布漁師の後継者不足により、供給量が減少することを危惧する声もある。 北海道内の各産地では、漁業後継者の確保や育成に向け、漁業後継者・新規就業者・就業希望者などに対する各種支援制度を設置し、漁師の減少を食い止めるための諸施策が実施されている。北海道宗谷管内の利尻島や礼文島では、自治体独自の支援制度のほか、自治体と漁業協同組合等の関係機関の協力に基づく漁業研修「漁師道」の実施により、町内のほか島外からも漁業就業希望者を迎え、実際の体験により漁業への理解を深め、移住を伴う外部人材を漁業従事者として育成するなど、漁業後継者の確保に努めている。 また、食生活の多様化により、一般家庭において昆布や鰹などからだしをとり調理することが減少する中で、昆布利用による効能や魅力をいかに効果的に発信するか検討することは、今後の需要喚起を考える上で重要となる。Ⅲ 今後の課題  生産地においては、昆布漁師の後継者を確保することにより昆布の安定供給の維持や品質保持および技術力を継承させるとともに、食育活動などを通して地域資源としての理解を促し、地域への矜持を醸成することが重要である。消費地においては、食育活動などをとおして昆布の効能や魅力に理解を促すとともに、地域と生産者を身近な存在に感じさせる関係性のもと、より深い関心や相互理解につなげるため、生産地との交流機会をもつことが必要である。付記 本研究は、日本学術振興会「課題設定による先導的人文学・社会学研究推進事業」実社会対応プログラム(公募型研究テーマ)「日本の昆布文化と道内生産地の経済社会の相互連関に関する研究」(研究代表者:齋藤貴之(星城大学)、研究期間:平成27年10月1日~平成30年9月30日)の成果の一部を使用している。
著者
丸山 洋平 吉次 翼
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100043, 2016 (Released:2016-11-09)

2011年3月に発生した東日本大震災から5年以上が経過した。その間、被災地および被災者に対する様々な支援が行われてきたが、集団移転、復興まちづくりの長期化、福島第一原発事故に伴う避難指示区域の設定等の理由により、居住地の変更を余儀なくされている人々が多数存在している。被災者の移動による転出と転入が生起しており、結果的に東日本大震災は被災地とその周辺自治体の人口分布変動を引き起こしている。人口移動を把握する方法として住民基本台帳人口移動報告を利用することが考えられるが、平時から住民票を動かさずに転居するという実態がある。それに加えて、原発避難者特例法等により、原発付近に居住できなくなった人々が、元の自治体に住民票を残しながら避難先自治体で行政サービスを受けることが可能になっており、とりわけ福島原発周辺自治体の人口移動を正確に把握することが困難であった。2016年6月末に2015年国勢調査の抽出速報値が公表され、都道府県と人口20万人以上の市で男女・年齢5歳階級別人口を分析できるようになった。本報告では被災自治体、特に福島県と県内人口20万人以上の市である福島市、郡山市、いわき市を対象として、2010年から2015年までの年齢別の人口移動、その結果としての人口分布変動を分析する。そして、それを以て被災地の復興計画や地方人口ビジョン・地方版総合戦略に見られる将来人口の見通しを批判的に検討することを試みる。なお、国勢調査の抽出速報値は、標本誤差の影響によって後に公表される確定値から少なくない乖離があることに留意する必要がある。 総人口の変化を見ると、2005年~2010年、2010年~2015年の2期間の人口増加率は、岩手県は-4.0%、-3.8%、宮城県は-0.5%、-0.6%、福島県は-3.0%、-5.7%であり、福島県において震災後に人口減少傾向が強まっている。2010年~2015年の年齢別純移動率を見ると、岩手県、宮城県では過去のパターンからの変化が小さいが、福島県では年少人口の大きな転出超過、前期高齢者の転入超過、後期高齢者の転出超過等があり、年齢構造が大きく変化し、少子高齢化の進行を早める結果となっていた。福島県内の3.市では、福島市といわき市の総人口が減少から増加に転じており、県内人口移動の影響が想起される。年齢別の純移動率を見ると、年少人口が転出超過になる点は福島県全体と同様であるが、福島市と郡山市では高齢期の転入超過が明確に表れているのに対し、いわき市では20歳代後半以降の全年齢層で転入超過になるという違いが見られる。浜通り地方にあるいわき市は沿岸部ではあるものの、福島第一原発付近の町村の多くが街ごといわき市へ移転し、原子力災害による避難者のための災害公営住宅が集中的に整備されていること等から、高齢者だけではなく幅広い年齢層で転入超過になっていると考えられる。中通り地方にある福島市と郡山市にも復興公営住宅が集中して整備されており、これが高齢者の転入超過に結びついていると推察される。以上をまとめると、福島県からは子どものいる世帯が主に流出し、県内では被災者向けの施策の影響で特定の都市部に人口が集中するという変化が起きているといえるだろう。 原発周辺地域の居住制限は短期間で解除されるものではなく、被災者は長期にわたって避難先での居住を続ける可能性があり、将来的には特定地域が極端に高齢化すると考えられる。加えて、年少人口の流出は将来の再生産年齢人口の減少から出生数の減少へと結びつき、福島県全体の少子高齢化を加速させる。各自治体の地方人口ビジョンを見ると、郡山市といわき市は原発避難者の状況分析と将来推計を行っているが、福島県と福島市では特に言及されていない。また、地方人口ビジョン全般に言えることだが、将来の出生率と純移動率に楽観的な見通しを与えた推計結果を目標人口に相当するものとして扱っており、とりわけ被災自治体では、こうした目標人口を掲げて現実を直視しないことが、復旧・復興を長期化させるのみならず、かえって地域の持続性を損なう可能性もある。今後の復興計画を単なる精神的な規定ではなく、実質的かつ効果的な政策枠組みとして機能させるためには、震災後の人口変動を踏まえ、よりシビアな将来人口の見通しを基準とする政策形成へと舵を切る必要がある。
著者
小川 滋之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100017, 2016 (Released:2016-11-09)

研究の背景と目的 スイゼンジナ(Gynura bicolor)は,キク科サンシチソウ属の多年生の草本植物である.日本,中国,台湾などの東アジアを中心とした広い地域で伝統野菜として古くから食されてきた.しかし,市場に流通することは少なかったため,産地の広がりや各産地の事情はあまり知られていない.原産地もインドネシアのモルッカ諸島や中国南部,タイ北部など諸説あり定かではない.地産地消が叫ばれる現在において,伝統野菜の普及を進める中では産地の事情を明らかにすることが重要である.以上のことを踏まえて,本研究ではスイゼンジナの産地分布と地域名を報告した. 調査方法 インターネット(Google)を用いて学名を検索し,個体の写真が掲載されているサイト,なおかつ写真撮影地域が特定できるサイトを対象に集計した.現地調査では,産地の分布,販売の形態と地域名を直接確認した.スイゼンジナの産地分布 この調査では,インターネット上にみられる言語数そのものが影響している可能性は高い.しかし,日本や中国,台湾などの東アジア地域が大半を占め,原産地のインドネシアを含む東南アジア地域の産地が少ない傾向がみられた.現地調査では,東アジアの中でも日本の南西諸島や台湾中部以北,中国南部の一部地域では農産物直売所や屋外市場で多く販売されており,人々に日常的に食されていた.東南アジアではタイ北部の植木市場や少数民族の集落にみられる程度で少なかった.これらの流通量からみると,原産地はインドネシアではなく中国南部からタイ北部の地域が有力であると考えられた.スイゼンジナの地域名 日本では標準和名のスイゼンジナが,地域名としては水前寺菜(熊本県),金時草(石川県),式部草(愛知),ハンダマ(南西諸島)がみられた.他では,地域あるいは企業が商標登録をしている事例として水前寺菜「御船川」(熊本県御船町),ガラシャ菜(京都府長岡京市),ふじ美草(群馬県藤岡市), 金時草「伊達むらさき」(宮城県山元町)がみられた.日本以外では,紅鳳菜(台湾),観音菜(中国上海市),紫背菜(中国広東省,雲南省,四川省),แป๊ะตำปึง(タイ北部)がみられた.東南アジアではスイゼンジナの近縁種(Gynura procumbens)のほうが多く,タイ北部(แป๊ะตำปึง)やマレーシア,クアラルンプール(Sambung nyawa)では名称に混同がみられた.近縁種については,沖縄島の沖縄市や読谷村においても緑ハンダマという名称で販売されていた.このようにスイゼンジナは,地域ごとに様々な名称があり伝統野菜となっていることが明らかになった.
著者
井田 仁康
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100132, 2016 (Released:2016-11-09)

地理教育の観点からみた防災教育の課題この課題の一つとして、災害から身を守るべくハザードマップが十分活用されていない、もしくは活用できないことがある。ハザードマップは、自分自身の身を守る「助かる」だけでなく、他の人を「助ける」ためにも有用であり、さらには地域全体としての防災をどうすべきかを考えるうえでも重要である。しかし、そのハザードマップが活用できていないことが多々あるのである。その要因は、地図を読むスキルが不足しているという読み手の問題と、ハザードマップをみてもどう活用できるのかわかりにくという地図作成側の問題とがある。いずれも、地図を読む、意図のはっきりした読みやすい地図を作成するといった地図活用のスキルの不十分さが指摘できる。学校教育としての地理教育だけでなく、社会教育としての地理教育を考えていかなければならない。地域の観察と防災教育 矢守氏の「防災といわない教育」、この視点は地理教育でも極めて重要と思われる。津波や地震などに襲われたとき、ハザードマップを見ながら逃げるわけにはいかない。つまり、ハザードマップが頭にはいっていなければならないことになる。その際、ハザードマップだけでなく日頃の地域に関する自分の認知と地図が一体化し、瞬時に判断していかなくてはならない。自分の家の周りを散歩するだけでも、どこが坂となっていて、どちらのほうにいけば高台にいけるかはわかる。さらには、土地の起伏や住宅の密集度などを観察して散歩していれば、日頃から様々な地域の情報がはいってくる。このようにして得られた情報と、自分があまり意識しない近隣地域も範囲となっているハザードマップを見慣れていると、何か起こった時、瞬時の判断の最適な判断材料となろう。 ハザードマップが適切な情報を提供していない場合もなくはない。その場合も、住民の経験による地域認識とハザードマップが一致しているのか、一致していないとすればどこに問題があるのか、考えながら地域を歩くことで地域の見直しができる。それにより、より適切なハザードマップができ、新たな見方を習得することができるようになろう。このようなことは、学校教育の社会科、地理の学習活動としても可能である。防災を目的とした地域調査であろうと、異なった目的の地域調査でも、防災に関する情報を、実地で収集することができる。このような地域調査に基づき、既存のハザードマップを修正したり、行政機関に修正を依頼したりすることもできよう。このような学習は、社会参画にかかわる学習となり、市民として何ができるか、何をしなくてはいけないかといった市民教育ともつながっていく。さらには、持続可能な社会を構築していくことにもつながる。国際協力と防災教育 防災教育をめぐる国際協力の在り方を指摘した桜井氏は、今後の地理教育を考えるうえで新しい示唆を与えてくれた。高等学校までの防災教育は、「自助・共助・公助」という観点があるが、国内での防災教育が前提となっている。特に教科教育の国際発信は、理数教育が注目され、海外から需要も高い。しかし、防災教育のカリキュラムを国際的に発信すれば、国際協力にもつながっていくように思われる。高等学校までの防災教育、とくに地理で行われる教育は国内を対象としている。一方で、世界各地での災害をみれば、地震による都市での災害、津波による災害、噴火による災害など日本との共通点も多く見出すことができる。日本では、多くの災害を経験し、教育にも国内を中心とした防災教育をとりいれてきた。こうした教科としての防災教育は、共通性の高い災害の起こりやすい他国でも参考になるし、情報を共有することで、一層質の高い防災教育をすることにつながる。日本の大学や大学院で、国内外の学生が地理教育を通しての防災教育学び、その成果を海外発信することは、世界が日本の地理教育、防災教育に期待することの一つとなろう。地理教育における防災教育 次期学習指導要領(小学校2020年、中学校2021年、高等学校2022年実施予定)では、高等学校では地理が必履修化される可能性が高い「地理総合(仮称)」では、防災が一つの主要な柱となっている。また、中学校、小学校でも防災教育は行われるだろう。地理教育における防災教育は、地域調査などを通して地域の特性を深く学び、防災に関する課題を見出し、主体的にその解決策を見出そうとし、お互いの考えなどを討論して、不足している知識を習得し、実現可能な解決策に近づけることがもとめられる。こうした学びは、習得、活用、探究といった学びのプロセスを踏むだけでなく、アクティブラーニングンの概念も踏襲している。さらにこのような防災教育にかかわる地理教育は、そのカリキュラムを海外へ発信することで、国際協力にも貢献できる可能性を秘めている。