著者
西澤 忠志
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.32-48, 2022 (Released:2023-10-15)

日本において西洋音楽は、明治時代(1868-1912)から本格的に受容され始めた。当初、教育やナショナリズムの涵養に資するものと見なされた西洋音楽は、明治20 年後半から学生や学者といった知識人によって「芸術」と見なされた。その中でも、文芸評論家として知られる上田敏は、学生時代に日本で初めて演奏批評を文芸雑誌に掲載した。 本論文は、日本において西洋音楽が芸術として評価された過程と、その思想的・社会的背景を、上田敏が演奏批評で使用した評価基準である「エキスプレッション」の意味を分析することで明らかにする。 まず、本論文は上田が演奏批評で使用した「エキスプレッション」の意味について検討する。「エキスプレッション」の重要性は、既に上田が演奏批評を発表する前に、精神や感情を表現する語として、洋書を通じて日本の音楽界に紹介されていた。上田はこれを、初めて演奏の評価基準として使用した。次に本論文は、上田が「エキスプレッション」を演奏批評で使用した思想的・社会的背景を検討する。上田は、音楽において具現化された精神と感情を強調した、ショーペンハウアーに代表される19世紀のヨーロッパにおける芸術観を特に高く評価した。彼はまた音楽を、主に女性と子供のための娯楽と見なす既存の音楽観とは異なる、「青年」層の情熱を表現する芸術であることを示そうとした。 以上の特徴を持つ上田の演奏批評は、限定されていた日本の音楽観に対して新たな視点を示すこととなった。そして、彼の音楽批評は、日本における洗練された文化としての西洋音楽の普及を助けることとなった。