著者
辻田 智子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.215-231, 2012-03

文化大革命では多くの映画作品,映画人が批判されたが,批判の理論的根拠となったひとつ が文芸黒線専政論である。文芸黒線専政論は「林彪同志が江青に委託して開いた部隊文芸工作 座談会紀要」(部隊紀要)で提起された。「部隊紀要」では建国以来のほとんどの映画が否定さ れたが,『南海長城』は映画作品のなかで唯一肯定的にとりあげられている。 『南海長城』はその制作が文革期の文芸政策の根幹に関わる重要な問題であるにもかかわら ず,これまでほとんど論及されてこなかった。また江青が推進した文芸政策の一環としてとら えて論じられたものは管見の限りでは見当たらない。本稿は「部隊紀要」にとりあげられなが ら撮影が中断した映画『南海長城』の制作過程について考察しようとするものである。 江青は文革前から『南海長城』を「模範映画」にしようとする意図を持っていた。中国建国 後17 年間に制作された映画作品のほとんどが否定されたなか,新たな模範を示そうとしたの である。しかしその文芸観は監督である厳寄洲の作風と相容れず,制作が遅々として進まない まま文化大革命を迎える。文革が始まると八一電影製片廠は混乱し,所長の陳播や厳寄洲に対 する批判運動が展開され映画の制作は中断する。映画『南海長城』は文革末期の1976 年9 月 になってようやく完成し10 月に公開された。制作決定から完成まで10 年以上の歳月を要した が,公開されてわずか二週間足らずで公開中止となった。 江青が「模範映画」を作ろうとした背景には「模範」という権威を作り出して自らの権威を 高める意図が潜んでいた。また解放軍所属の映画撮影所である八一電影製片廠という軍の文芸 の力を借りて自らの政治的野心を実現させる思惑もあった。文革により映画の制作が中断した のは,映画制作よりも対立するグループを批判,排除することを選択したこと,文革の開始と ともに江青の政治的地位が急上昇したこと,いっぽうで進めていた京劇改革が成果を上げ評価 されたこと,そのため「模範映画」に依拠する必要がなくなったことなどの要因が考えられる。 本稿は以上について論及し,文革が始まる前から文革に至る文芸政策がどのようになされて いたのかの一端を解明しようとするものである。