- 著者
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逆井 聡人
- 出版者
- 東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
- 雑誌
- 言語情報科学 (ISSN:13478931)
- 巻号頁・発行日
- no.12, pp.181-197, 2014
本稿は、アジア太平洋戦争直後の日本映画において、戦略爆撃と疎開空地によって形成された都市空間の焼跡が如何に表象され、そしてまた批評の言葉によって如何に語られてきたかを『東京五人男』(斎藤寅次郎監督、1946年)と『長屋紳士録』(小津安二郎監督、1947年)を中心に検討する。『東京五人男』には、敗戦直後の焼跡の風景がありありと映し出されるものの、批評の言葉はそれを見苦しいものとして論じず、作品自体の出来の悪さとして切り捨ててきた。『長屋紳士録』においても、物語の背景としての焼跡が提示する敗戦の現実が、「昔ながらの下町人情劇」という枠組みで評価されることにセロよって、見えないものとされてきた。焼跡という実際の都市空間が、「戦後日本」の「0地点」という記号としての〈焼跡〉へと抽象化がなされる際、それが本質的に孕んでいた加害/被害の重層性は隠蔽されてしまう。批評の言葉と映し出される光景の歪みに着目し、実際の焼跡が提示する加害の責任を浮き彫りにすることで、焼跡表象の可能性を検討することが本稿の目的である。