著者
那須 円照
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1217-1223, 2013-03-25

本論攷では,護法(Dharmapala)の『唯識二十論』に対する注釈書である『成唯識宝生論』における唯識無境(世界は心のみであり外界の対象は存在しない)という学説を積極的に論証した箇所について検討する. この唯識無境の論証には,二つのレヴェルがあることに注意しなければならない.それは,論理的な極微論批判的背景にもとづく外界物質実在論批判と,究極の唯識は仏陀の自己認識のみであり,他者の心の実在性も認めず,一切は包括的に仏陀の心の中の認識内容であるという立場である.後者は,『唯識二十論』の末尾の記述と密接に関係する.前者は,『唯識二十論』の極微論批判の記述と密接に関係する.後者は,『唯識二十論』の法無我の論証の箇所の,主観・客観を離れた唯識性(離言の法性)のみが存在するという記述に若干仏陀の唯識との関連性が見られる.護法は外界実在論者を,外界の対象は識にもとついて構想されたものであり,識なしにはなく,構想された共相は非実有であり,外界の物質的対象は極微論批判的な内的必然性にもとついて無であるとした.また,この外界非実在論に加えて,もう一つさらに,真の唯識は,他者の物質的存在を否定するだけでなく,他者の精神的存在も仏にとっては真実には他者としてありえないということが,自己認識,清浄な自心の認識,主客を離れた真の唯識,というような表現で,示唆されている.このことは,『唯識二十論』の末尾のヴィニータデーヴァと慈恩大師・基の註釈で,真の唯識とは,仏陀の包括的自己認識であるというような文脈でまとめられている.これは独我論というよりは,絶対的包括的唯心論と名づけるべきであろう.