著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.8, pp.171-202, 2011

朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)を生業として母親をもつ、ある在日コリアン2世の女性からの聞き取り。語り手のライフストーリーのうち、本稿では、娘の立場から見た「巫堂の世界」に焦点をあてる。中村幸子さん(仮名)は、1935年大阪生まれ、聞き取り時点では日本国籍を取得している。母親は、遠方からも客が訪ねてくるほどの有名な巫堂だった。語り手は、子どものころから、乳飲み子の弟妹たちの子守り役として、頻繁に、母親の祭儀についてまわり、その仕事を間近に見てきた。また、母親に巫堂の力を与えた「神さん」の世界のありようや、祭儀の手続きがもつ意味、「神さん」と人間のあいだに立つ巫堂の役割などについて、語り手は、成育の過程で繰り返し、母親からの説明を聞いている。さらに、語り手自身、「神の使いが降りてきて造花がしゃべった」「息子の交通事故を母親が事前に教えてくれた」不思議の体験をしている。その意味で、母親だけでなく、語り手本人もまた、巫堂の世界観を生きてきた一人である。本稿は、亡くなるときまで「巫堂」をまっとうした母親の姿を、まさに巫堂の世界観に基づいて伝える、娘による物語りである。数々の不思議の出来事が語られるが、語り手のストーリーテリングの能力は高く、ひとつひとつのエピソードの情景が、まるで昨日の出来事のように鮮やかだ。そのなかで、巫堂の「拝み」は、けっして人間の思いどおりに現実を動かすようなものではなく、あくまでも、「神さん」の声を聞き、「神さん」を怒らせている原因を取り除くことで、人間世界に起きている障りを小さくしようとするものだとされる。母親から伝えられた知識や解釈が随所に散りばめられているこの物語りは、その受け手(聞き手/読者)がたとえ巫堂の世界観を共有していなくとも、その世界観を生きる人々がたしかにいる(いた)ことを、了解させる力をもっている。巫堂の世界観を伝える口承伝承ともいえるだろう。なお、「ある在日コリアン2世ハルモニの語り(下)」では、「帰化しても気持ちは朝鮮人」と題して、語り手自身の生の軌跡に焦点をあてて報告する予定である。
著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.153-172, 2012

ある在日コリアン2世ハルモニのライフストーリーの続編。 語り手の中村幸子(さちこ)さん(仮名)は、1935年大阪生まれ(初回の聞き取り時点で74歳)。9人きょうだいの5番目。戦時下で空襲がひどくなり、それなりに安定した暮らしをしていた大阪から、一家で姫路へ疎開。疎開後は、父親は失業対策事業で働き、家計を支えたのはむしろ、朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)となった母親だった。 幸子さんは、学齢期になると、日本の公立学校である国民学校へ通った。日本人の同級生たちから侮蔑語を投げつけられ、よく喧嘩をした。10歳のときに終戦、「民族解放」を迎える。日本の小学校をやめ、3歳上の兄とともに、同胞たちの始めた民族学校に通った。幸子さんの家は貧しかった。中学3年上のとき、両親に「女は勉強せんでもええ」と言われ学校をやめさせられ、かわりに、近所で洋裁を習った。姉3人はみな19歳で結婚して、家を出た。長男である兄は、日本の高校を出て、日本の大学に進学。幸子さんは、「女は役に立たない」と言う親の言葉に、反発を感じていた。母親は巫堂の仕事で忙しく、幸子さんは、兄が結婚するまでのあいだ、兄の身のまわりの世話をしなければならなかった。それでも、親の目を盗んで映画館やダンスホールへ行くなど、青春時代を楽しむこともあった。なお、幸子さんの3番目の姉は、婚家の家族とともに「北朝鮮への帰国」をしている。 幸子さんは、21歳のとき、親が決めた同胞男性と見合い結婚。夫は、古鉄屋や土建屋などの仕事を始めるが、いずれも長続きしなかった。けっきょく、幸子さんが娘と弁当屋を始めることで、暮らしが安定した。2005年に、帰化により日本国籍を取得。 このライフストーリーでは、戦時中から戦後にかけて、日本社会の在日朝鮮人差別、そして在日朝鮮人社会の「男尊女卑」に抗ってきた生きざまが、豊かに語られている。