著者
坂田 寿子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
埼玉大学大学院文化科学研究科博士学位論文 : 論文内容の要旨及び論文審査結果の要旨
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-4, 2018

博士の専攻分野の名称 : 博士(学術)学位授与年月日 : 平成30年3月23日
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.107-125, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。 稲葉正彦さん(園名)は,1934 年,熊本県生まれ。中学を卒業して,神戸製鋼に勤める。26 歳で結婚。ハンセン病の症状が出始め,大阪大学で通院治療を受けるが,「1 日おきの通院」を求められ,勤めを辞めざるをえなくなり,1965 年5 月26 日,菊池恵楓園に収容。結婚して5 年目,31 歳になったばかりの働き盛りであった。兵庫県の車で熊本まで移送されるものの,彼にはこのとき一晩で恵楓園まで着いたのか二晩かかったのかの定かな記憶が再現できない。――このときの悔しさゆえ,1998 年提訴の「らい予防法違憲国賠訴訟」では,原告の一員に加わったのだという。ハンセン病に罹ったこと自体を不遇の根拠と考えてしまうハンセン病罹患者が多いなかで,彼は「らい予防法」ゆえに社会生活を送りながらの通院加療の体制が整えられていなかったのだと,明晰な認識を構築しえているのが印象的であった。 聞き取りは,2011 年7 月8 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で77 歳。なお,2012 年12 月7 日,ご本人と読み上げによる原稿確認をした。稲葉さんには隔離収容体験の苛烈さゆえか,"自分が置かれた立場の自己対象化の明晰さ"と同時に,一面"シニカルさ"をも併せ持っているように感じられるが,それも彼を取り巻く社会的関係性の函数であることを伺わせる語りが,この補充の聞き取りで聞くことができた。つまり,2011 年の聞き取りでは,身内からは"供養事は呼ばれても祝い事は呼ばれない"と諦めに似た感慨とともに語っていたのが,2012 年のときには,この1 年のあいだに"姪の子の結婚式に招かれた"ことを喜びとともに語り,ハンセン病問題にかんする"啓発が行き届き始めているのではないか"と,これからに希望を見いだしつつある。 語りのなかで,稲葉さんは「ガンの治療」をしたとサラッと語っているが,どうやら予後はあまり芳しくないようである。2014 年7 月にわたしたちが再度,恵楓園を訪ねたとき,彼の顔色はよくなかった。しかし,その体で彼は,恵楓園自治会の副会長をつとめ,他の自治会役員とともに,月に複数回,恵楓園を訪ねてくる小中学生たちを相手の説明役をこなしている。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 【追記】稲葉正彦さんは,2015 年1 月3 日永眠された。享年80 歳。合掌。 This is the life story of a man in his 70s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility) was born in Kumamoto prefecture in 1934. After graduating junior high school, he worked for Kobe Steel. He got married at 26. When Mr. Inaba got Hansen's disease he went to the Osaka University Hospital to seek a cure. He had to quit his job because his doctor told him that he needed to attend every other day for medicine. He was sent to Kikuchi-Keifūen on 26th May 1965. He was only 31 years old when he entered the Hansen's disease facility. It was the 5th year of his marriage and the prime time of his life. He was transferred from Hyogo prefecture to Kumamoto by a car but he did not remember if it took one night or a couple of nights to arrive at Kikuchi-Keifūen. The fury that he felt at that time never disappeared and propelled him to join the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of plaintiffs 33 years later. In general, many Hansen's disease ex-patients have a tendency to regard having symptoms as individual adversity. However, Mr. Inaba seemed to have a clear opinion that the Segregation Policy and lack of social systems to support Hansen's disease patients in their attempts to carry on a normal life style while making regular hospital visits were real problems. This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 8th July 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. Mr. Inaba was 77 years old at the time of the interview. The interview script was revised with a follow-up interview and then approved by him on 7th December 2012. His stories show his objective and somewhat cynical attitudes toward his own experiences of segregated life in the Hansen's disease facility. Through the follow-up interview we learned that such attitudes were the product of the relationship between him and intimate people around him. When we interviewed him in 2011 he lamented that his relatives invited him for sad events but never sought him for celebrations. However, when we visited him again in 2012, he happily told us that he was invited for the wedding ceremony of his niece's children. Mr. Inaba also added that this event showed a hopeful development of the people's understanding of Hansen's disease. During the interview, he told us he has cancer, and it seemed that he was not in good condition. In July 2014, when we met him again at Kikuchi-Keifūen, in spite of his bad condition, he was serving as vice president of the resident association and giving speeches to young students to explain about Hansen's disease.
著者
梁 姫淑
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
博士論文(埼玉大学大学院文化科学研究科(博士後期課程))
巻号頁・発行日
2014

序章はじめに一.張赫宙の生涯と日本語作品二.先行研究三.研究目的*第一章 戦後の出発はじめに一.「日本の国民に訴ふ」二.親日行為に対する弁明―「民族」三.在日朝鮮人文学者の嚆矢―金達寿四.民族の戦いを歌い上げる―許南麒おわりに第ニ章 在日朝鮮人民族団体との関わりはじめに一.戦後の歩み二.在日朝鮮人との関わり三.マスコミによる朝鮮人攻撃と張赫宙四.心の相剋とその行方おわりに第三章 実存的不安をめぐる作者の軌跡―「脅迫」論はじめに一.現実的不安と内的不安二.自己認識①―「弱気な自分」三.自己認識②―「母国語を持ってない異質な自分」四.実存的不安へ五.新しい文学への挑戦―児童向け著作おわりに第四章 日本語への回帰―「私の文学」を求めてはじめに一.占領下の児童文学二.張赫宙の児童向け著作三.児童向け著作における新しい興味性(可能性)四.「新しい文学」の志向性おわりに第五章 祖国に対する愛情のゆれ―『鳴呼朝鮮』論はじめに一.執筆背景及び同時代評二.祖国朝鮮の真実の姿三.変えられた結末四.愛情のゆれおわりに第六章 祖国を離れる者の願い―『無窮花』論はじめに一.朝鮮取材とルポルタージュ二.「民族的哀しみ」の本質三.「無窮花」と「毒の花」四.祖国を離れる者の願いおわりに*結章一.帰化後の自伝小説について二.習俗として残る民族の残滓―「異俗の夫」三.おわりに四.本論文の成果と課題初出一覧参考文献張赫宙戦後著作年譜
著者
大塚 秀高
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.81-94, 2011

西王母は古く『山海経』に異形の姿を現すが、のちには不老不死の仙薬や蟠桃の管理者として、人間界の帝王などと交会するようになる。当初の両性具有の存在から女性原理の体現者に変化したため、男女の交会により自らの不老不死の能力を更新する必要が生じたためであろう。しかし人間界に交会の相手を求めるのは困難であり差しさわりもあると意識されたのであろう、西王母の対偶神としての東王公が創出され、これと歳に一度の交会を果たすようになった。ところが道教のパンテオンのなかで、東王公が天帝、西王母が女神の最高神となるや、両者の交会は不適切と感ぜられるようになってしまった。かくてその役割は織女と牽牛という第二世代にバトンタッチされた。原西王母の継承者である織女は、道教パンテオンにおいて間もなく西王母の娘に相応しい「夫人」の地位を得たが、男性原理の体現者を人間界に求める必要がある点ではそれまでと変わらなかった。これが『新話摭粋』(や『緑窗新話』)の遇仙類に見える、「遇」や「歓」を求める仙女の正体であり、「楊家将」に代表される、数世代に亙る武将一族の物語において、戦場で男将と闘い、これを実力で負かして捕虜にしたうえ強引に夫とする(陣前比武招親)、女仙に師事する女将の正体であった。いいかえれば、「陣前比武招親」する女将は西王母の第二世代であり、その師事する女仙は西王母だったのである。このモチーフを「西王母交会モチーフ」というとき、「西王母交会モチーフ」は後の才子佳人小説の中にも形を変えて使われていた。「西王母交会モチーフ」は中国の小説史において極めて重要なモチーフといえよう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-63, 2010

この調査ノートは,「らい予防法」による「隔離政策」が貫徹していた時代に,ハンセン病を発症しながら,「ハンセン病療養所」に入所することなく生涯を終えた女性を母親にもつある男性のライフストーリーである。TM さんは1945 年生まれ。1956 年ごろ,母親がハンセン病だとの噂が地域社会に広がり始める。1959 年4 月,TM が中学2 年のはじめ,母親は「親戚会議」の決定に従って,「ハンセン病療養所」への入所を回避して,鳥取県から大阪に移住。阪大病院の「らい部門」での外来診療に通院することとなる。4 人の兄と1 人の姉が「逃げて」しまったあと,TM はひとりで母親の面倒をみる。9 年間の大阪暮らしのあと,阪大病院の外来治療に見切りをつけて,母とTM は鳥取県に戻る。TM は出稼ぎをしながら母親の生活を支える。1985年,母親が脳梗塞で倒れ,老人ホームに入所。ここで露骨な差別的扱いを受ける。この時点で,TM は,母親に「よかれ」と思って,「非入所」の生活を支えつづけてきたが,むしろ,ハンセン病療養所に入所させていたほうが母親の老後は幸せだったのではないかと,価値判断の大転換を体験する。このときから,そして,母親が1994 年に亡くなった後も,保健所や県庁を相手に,「らい予防法」に従った適切な対応を怠ってきた責任を執拗に問いつづける。まともに相手にされず,けっきょくは,2003 年,「こまい鉈」で県職員を殴打し,「殺人未遂事件」として刑事事件の被告とされ,「懲役3 年の実刑判決」に服した。TM の“非入所よりはハンセン病療養所に入所していたほうが,母は幸せだったにちがいない”という言説,“行政職員が「らい予防法」に従って適切な対応をしなかったのは問題だ”という言説,そして,“阪大病院のハンセン病治療は,患者家族の経済的立場を十分に考えておらず,治療内容も患者とその家族に十分な説明のないままの診療実験にすぎなかったのではないか”という言説は,2001 年の熊本地裁判決,その後の「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005年)などによって積み上げられてきたハンセン病問題をめぐる現在の共通理解とは,一見対立するかのようである。しかし,わたしたちの理解によれば,TM の語りは,「らい予防法」体制下の「強制隔離政策」というものは,たんに,当事者の意思にかまわず強制的にハンセン病療養所へと患者を引っ張ってきて閉じ込める《収容・隔離の力》だけでなく,社会のなかに患者とその家族の居場所を徹底的になくして,ときに,患者みずからに,あるいは,患者の家族に,療養所への入所を望ませさえする《抑圧・排除の力》をもつくりだすことによって,はじめて機能していたということ。非入所を貫いたということは,この後者の《抑圧・排除の力》を長年にわたって浴びつづけたことにほかならないこと。それへの憤りが,母親の老人ホームでの差別的扱いで一挙に噴出したことをこそ,雄弁に物語っていると読み取れる。TM の語りは,ハンセン病療養所に「強制隔離された生活」が人権を根こそぎ剥奪された生活だったとすれば,「非入所者」としてハンセン病療養所に入所せずに社会のなかで暮らしつづけることも徹頭徹尾心のやすらぎを奪われた生活であったことを,鮮明に物語っているのだ。
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.65-105, 2015

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以下,本誌次号に掲載予定)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~11. 労働者と学生の参加12. 十の日デモの広がりとその評価13. まとめにかえて 日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。その活動のベースとなったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた 。 筆者は,福岡で「十の日デモ」が地道に奮闘していた1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした全3部構成の論考を準備した。本号掲載の論考は,その第2部にあたる。 本号では,はじめに,1960年代初頭から67年末までの福岡での既成組織によるベトナム反戦運動の動向を追う。福岡における闘争は,九州北部および沖縄がベトナム戦争の米軍戦略基地地帯となることへの反対というかたちで取り組まれた。ナイキ・ミサイルの配備,射爆場の存在,博多港での弾薬陸揚げ,小倉の山田弾薬庫の強化,そしてなによりも板付基地の活用強化に対する抗議運動が,福岡の既成組織が取り組んだベトナム反戦運動であった。また,既成組織による反戦運動の中でも,既成組織外の市民や,既成組織に所属しながら自主性のある活動を求める若者世代の意向に応えようとする運動形態の模索が試みられていることにも注目した。 続いて本号では,同時期の福岡の市民によるベトナム反戦運動の動向を検討した。既成組織による,あるいは既成組織を基盤にした反戦運動とは異なる特徴を持つ,「市民」中心のベトナム反戦運動が1960年代半ばの福岡には登場している。そうした「市民」は既成組織に所属しないままで,あるいは所属する既成組織を持ちながらも組織の運動とは別に,一個人として自主的に参加することができるベトナム反戦運動の実践に意義を認めて活動を展開しようとした。福岡の場合,そうした運動の場づくりに尽力したのは九州大学の知識人であった。とりわけ重要なのは,九大の数学者と,彼らが属していた学会である日本数学会の動向である。その点をみていく。 そして,本号の最後の節では,1965年10月に始まり,その後7年以上にわたって続けられたベトナム反戦デモを担うことになる「十の日デモの会」発足の経緯と担い手,その特徴について明らかにする。 Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973. However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the second part of that essay and the last part will appear in the next issue of this journal. This article firstly traces the anti-Vietnam War activities inFukuoka coordinated by established organizations such as political parties and trade unions. Those anti-war struggles were struggles against the U.S. military bases existed in Fukuoka and nearby areas, as they were increasingly used as strategic bases for Vietnam War. Kita-Kyusyu region, which includes Fukuoka city, were witnessing the deployment of Nike missiles, establishment of a firing and bombing practice areas, landing of ammunitions at Hakata seaport, reinforcement of Yamada ammunition depot, taking-off and landing practice by jet fighters at Itazuke airport and so on. Left-wing political parties and trade unions opposed these trends. It is noteworthy that those conventional organisations tried to create new forms of anti-war movements which would appeal to those younger generations, who were likely to hate to be organized from above. In the second section, this article examines the origins of citizen's anti-Vietnam War movements in Fukuoka, which emerged in the middle of the 1960s. The movement aimed to accommodate those citizens who wished to express his/her own voice against the Vietnam War without affiliating to any organisations. Behind the citizen's movement in Fukuoka were intellectuals of Kyusyu University, especially, and remarkably, mathematicians. The article also looks at the activities pursued by the members of the Mathematical Society of Japan; they were engaged quite actively in anti-Vietnam War movement. Finally, this article followed up the historical process in which the movement actually formed, focusing on their main activity, Tō-no-hi-demo. This last section discusses the characteristics of the intellectuals behind the scene, in order to make sense of the movement in Fukuoka.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.147-185, 2015

ハンセン病療養所から社会復帰して生きる60 代男性のライフストーリー。 竪山勲(たてやま・いさお)さんは,1948 年,鹿児島県生まれ。ハンセン病であった母は,1960 年,自宅で死亡。1962 年,中学2 年のときに,星塚敬愛園に収容される。ハンセン病療養所入所者のために瀬戸内海の長島愛生園に作られた4 年制の高校,新良田教室を3 年で中退,敬愛園に戻る。20 歳のとき脱走。東京で暮らすが,病気が騒いで多磨全生園に再入所。1975 年,敬愛園に送り返される。1998 年,「らい予防法違憲国賠訴訟」の第1 次原告のひとりとして,国を相手取った闘いに立ち上がる。裁判に勝利したあと,2004 年,社会復帰。同年,衆院補欠選挙に民主党から立候補するも落選。2011 年1 月の聞き取り時点で,62 歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」事務局長。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,北田有希。 竪山さんは,みずから「群れをなすのは好かん。おれは一匹狼」と語るが,同時に,不条理を見抜く眼力の鋭さは天下一品。竪山さんを抜きには,あの「らい予防法違憲国賠訴訟」は,ああは展開しなかったことは間違いない。 聞き手として,竪山さんの話を聞けてほんとによかったと思えることが,2点ある。ひとつは,国に謝罪と賠償を求めるハンセン病訴訟が星塚敬愛園で始まったのは,田中民市さんが園内放送で園内の入所者に呼びかけ,島比呂志さんが手紙を書いて法曹界に訴えかけ,そして,竪山勲さんが放送界に訴えかけたという,それぞれ独自の3 つの動きが一つに合流することによる,という話である。また,KK さんのハンストに言及しつつ,一人ひとりの命を懸けた闘いが勝利をもたらしたのであり,「ハンセン病裁判にヒーローは要らん」と言い切った竪山さんの言葉に,わたしたちはなるほどと得心した。 いまひとつは,竪山さんは,聞き取りの冒頭で「自分には差し障りになるような個人情報はなにもない」と述べ,じっさいに,東京での「逃亡者のごとき」生活ぶり,多磨全生園に再入所せざるをえなかった経緯,さらには,全生園から敬愛園に強制的に送り返された顛末まで,みずからのライフストーリーを率直に語ってくれた。竪山さん自身は,"自分はいつも道の真ん中を歩いてきた。しかし,跳ねっ返りと言われるようになっていた"と語るが,彼の人生のそれぞれの局面を規定づけていたものが強制隔離政策の「らい予防法」体制であったことは,彼の語りから明らかであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 60s who returned to society after living in a Hansen's disease facility. Mr. Isao Tateyama was born in Kagoshima prefecture in 1948. His mother, who also had Hansen's disease, died at home in 1960. In 1962, he was sent to Hoshizuka-Keiaien, a Hansen's disease facility when he was in the second grade of a junior high school. He dropped out of the third grade of the Niirada class of a four-year senior high school established for Hansen's disease patients in Nagashima-Aiseien on the Seto Inland Sea. He escaped the Hansen's disease facility when he was 20 and had lived in Tokyo, but he was sent to the Hansen's disease facility, Tama-Zenshōen again after his symptoms were aggravated. In 1975 he was sent back to Hoshizuka-Keiaien in Kagoshima prefecture. In 1998, he launched his struggle against the government by joining the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of the first plaintiff group. In 2001, the lawsuit was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court. In 2004, he returned to society and in the same year ran for the House of Representatives by election but failed to gain a seat. He was 62 years old when this interview was conducted on January 2011. He serves as a bureau chief of the National Association of the Plaintiffs of the Lawsuit Suing the Segregation Policy for Unconstitutionality. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Yuki Kitada. Mr. Tateyama describes himself as a lone wolf that does not join the pack. He has the ability to point out social absurdity and it would have been impossible for the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality to have been developed without Mr. Tateyama. We learned two quite important things from the interview with Mr. Tateyama. First, we found that the lawsuit which claimed the apology and compensation from the government began in Hoshizuka-Keiaien with the combination of three respective movements: Mr. Tamiichi Tanaka's proposal to the ex-patients in the facility by public announcement; Mr. Hiroshi Shima's letters to attract attention from legal community; and Mr. Isao Tateyama's appeal to broadcasting networks. He also mentioned the individuals' desperate struggle invited the win of the suitcase by mentioning Mr. K. K's hunger strike. From this, we can understand Mr. Tateyama's statement, "We do not need a hero for the lawsuit." Second, Mr. Tateyama stated at the early stage of the interview that he did not have any personal information to hide and told almost all of his life story while he lived in Tokyo as a fugitive, how and why he entered Tama-Zenshōen, and the process of coercive re-confinement to Hoshizuka-Keiaien. He used metaphor to describe his life, "I always have walked in the center of the road but became to be said to run and hop." From his story, we learned that the Segregation Policy deeply affected several scenes of his life.
著者
坂田 寿子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
博士論文(埼玉大学大学院文化科学研究科(博士後期課程))
巻号頁・発行日
2018

序章......2第一章 古典主義作品のモティーフ「地歌・上方舞」に至るまでのプロセス......5一、戯曲『象』における「保名狂乱」と「狐曾」谷﨑文学のテーマ「狐」、「母恋い」、「白」、「姉妹対象恋愛」の端緒と江戸趣味音楽......5二、『蘆屋道満大内鑑』における谷崎の恋愛傾向の原型―「姉、妹」との恋愛と狐に対する恐れと異類婚......18第二章 谷崎の江戸っ児意識と江戸趣味―芸能の視点から......26一、谷崎作品に影響を与えた下町庶民の愛好音曲......26二、谷崎の生活行動に見られる「江戸っ児」......44三、江戸趣味に隠された願望を紐解く『幇間』、『女人神聖』、『少年の脅迫』から―......45四、地歌・京舞への端緒―『朱雀日記』より―......55第三章 地歌曲目の視点から谷崎の作品を読み解く......60一、谷崎の地歌への開眼......60二、谷崎が愛した地歌......65三、「綾衣」、「由縁の月」―詞章から読み解く『蓼喰ふ蟲』の登場人物、老人とお久の心情とその背景......73四、「黒髪」―生身の女の情念の歌、『蓼喰ふ蟲』の美佐子の心情および晩年に至るまでの谷崎の「黒髪」に対する思い......83 ―主人公要のいる地歌「黒髪」と「雪」その裏に隠された妻美佐子とそのモデル千代夫人の情念―......83五、松子御寮人と「黒髪」......85六、「菊の露」丁未子夫人との結婚生活の破鏡と根津松子への恋慕の曲......91七、『卍』―谷崎の地歌熱中時代における地歌引用皆無の作品......104八、「茶音頭」の詞章と『春琴抄』および回想録『初昔』―谷崎自身と佐助、松子と春琴の役割、自己投影と松子御寮人から妻への二人の関係性の変化―......107九、地歌「茶音頭」に隠された人間関係『春琴抄』の「春琴」、「佐助」から『初昔』の「爺」、「婆」......110十、「茶音頭」と佐助......115 ―谷崎の分身佐助と佐助の盲目の真相―......115第四章 『細雪』......116一、戦前の谷崎文学の集大成の作品『細雪』の中での地歌・上方舞の重要性......116二、谷崎と上方舞「山村流」との関わり......117三、妙子と地歌「雪」......123第五章 『細雪』その後......129一、随筆「雪」......129二、山村流との訣別......133三、井上流との出会いと谷崎の老後と「残月」......135終章......141参考文献リスト......142
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.147-185, 2015

ハンセン病療養所から社会復帰して生きる60 代男性のライフストーリー。 竪山勲(たてやま・いさお)さんは,1948 年,鹿児島県生まれ。ハンセン病であった母は,1960 年,自宅で死亡。1962 年,中学2 年のときに,星塚敬愛園に収容される。ハンセン病療養所入所者のために瀬戸内海の長島愛生園に作られた4 年制の高校,新良田教室を3 年で中退,敬愛園に戻る。20 歳のとき脱走。東京で暮らすが,病気が騒いで多磨全生園に再入所。1975 年,敬愛園に送り返される。1998 年,「らい予防法違憲国賠訴訟」の第1 次原告のひとりとして,国を相手取った闘いに立ち上がる。裁判に勝利したあと,2004 年,社会復帰。同年,衆院補欠選挙に民主党から立候補するも落選。2011 年1 月の聞き取り時点で,62 歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」事務局長。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,北田有希。 竪山さんは,みずから「群れをなすのは好かん。おれは一匹狼」と語るが,同時に,不条理を見抜く眼力の鋭さは天下一品。竪山さんを抜きには,あの「らい予防法違憲国賠訴訟」は,ああは展開しなかったことは間違いない。 聞き手として,竪山さんの話を聞けてほんとによかったと思えることが,2点ある。ひとつは,国に謝罪と賠償を求めるハンセン病訴訟が星塚敬愛園で始まったのは,田中民市さんが園内放送で園内の入所者に呼びかけ,島比呂志さんが手紙を書いて法曹界に訴えかけ,そして,竪山勲さんが放送界に訴えかけたという,それぞれ独自の3 つの動きが一つに合流することによる,という話である。また,KK さんのハンストに言及しつつ,一人ひとりの命を懸けた闘いが勝利をもたらしたのであり,「ハンセン病裁判にヒーローは要らん」と言い切った竪山さんの言葉に,わたしたちはなるほどと得心した。 いまひとつは,竪山さんは,聞き取りの冒頭で「自分には差し障りになるような個人情報はなにもない」と述べ,じっさいに,東京での「逃亡者のごとき」生活ぶり,多磨全生園に再入所せざるをえなかった経緯,さらには,全生園から敬愛園に強制的に送り返された顛末まで,みずからのライフストーリーを率直に語ってくれた。竪山さん自身は,"自分はいつも道の真ん中を歩いてきた。しかし,跳ねっ返りと言われるようになっていた"と語るが,彼の人生のそれぞれの局面を規定づけていたものが強制隔離政策の「らい予防法」体制であったことは,彼の語りから明らかであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 60s who returned to society after living in a Hansen's disease facility. Mr. Isao Tateyama was born in Kagoshima prefecture in 1948. His mother, who also had Hansen's disease, died at home in 1960. In 1962, he was sent to Hoshizuka-Keiaien, a Hansen's disease facility when he was in the second grade of a junior high school. He dropped out of the third grade of the Niirada class of a four-year senior high school established for Hansen's disease patients in Nagashima-Aiseien on the Seto Inland Sea. He escaped the Hansen's disease facility when he was 20 and had lived in Tokyo, but he was sent to the Hansen's disease facility, Tama-Zenshōen again after his symptoms were aggravated. In 1975 he was sent back to Hoshizuka-Keiaien in Kagoshima prefecture. In 1998, he launched his struggle against the government by joining the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of the first plaintiff group. In 2001, the lawsuit was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court. In 2004, he returned to society and in the same year ran for the House of Representatives by election but failed to gain a seat. He was 62 years old when this interview was conducted on January 2011. He serves as a bureau chief of the National Association of the Plaintiffs of the Lawsuit Suing the Segregation Policy for Unconstitutionality. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Yuki Kitada. Mr. Tateyama describes himself as a lone wolf that does not join the pack. He has the ability to point out social absurdity and it would have been impossible for the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality to have been developed without Mr. Tateyama. We learned two quite important things from the interview with Mr. Tateyama. First, we found that the lawsuit which claimed the apology and compensation from the government began in Hoshizuka-Keiaien with the combination of three respective movements: Mr. Tamiichi Tanaka's proposal to the ex-patients in the facility by public announcement; Mr. Hiroshi Shima's letters to attract attention from legal community; and Mr. Isao Tateyama's appeal to broadcasting networks. He also mentioned the individuals' desperate struggle invited the win of the suitcase by mentioning Mr. K. K's hunger strike. From this, we can understand Mr. Tateyama's statement, "We do not need a hero for the lawsuit." Second, Mr. Tateyama stated at the early stage of the interview that he did not have any personal information to hide and told almost all of his life story while he lived in Tokyo as a fugitive, how and why he entered Tama-Zenshōen, and the process of coercive re-confinement to Hoshizuka-Keiaien. He used metaphor to describe his life, "I always have walked in the center of the road but became to be said to run and hop." From his story, we learned that the Segregation Policy deeply affected several scenes of his life.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.127-146, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80 歳代男性のライフストーリー。 杉野芳武(すぎの・よしたけ)さんは,1931 年3 月,熊本県生まれ。1942 年9月27 日,菊池恵楓園に入所。この11 歳で母に連れられて恵楓園にやって来たとき,彼は子どもながらに入所を拒否して"脱走"している。ところが,再度母親に連れられて「門をくぐった」彼は「もう外に出るのが怖くなった」と語る。彼が生家の敷居を再び跨いだのは,母危篤の連絡を受けた1979 年のことであった。37 年間も彼の生家への帰省を阻む目に見えない力が,「癩/らい予防法」下のハンセン病療養所には作動していたということであろう。 2001 年のハンセン病違憲国賠訴訟の熊本地裁での原告勝訴のあと,2003 年になって,熊本県内の黒川温泉で恵楓園入所者への宿泊拒否事件が発生。その町は杉野さんの生まれ故郷であった。自治会役員としてこの問題に対処した当事者の視点から,事件の顛末を詳しく語っていただけた。――恵楓園にやって来たホテルの総支配人の"謝罪文"の受取りを入所者自治会が拒否する場面が全国放送で流され,その後,入所者たちに対する誹謗中傷の手紙や電話が殺到した。杉野さんの語りによれば,ホテルに総支配人を訪ねたときは,宿泊拒否は「本社の社長の判断だ」と言い張っていたのが,恵楓園に来たときは「お断りしたのはすべて自分の判断」で押し通したのだという。心からの反省,謝罪を微塵も感じ取れなかったがゆえの,入所者たちの反応だったのだ。 聞き取りは,2011 年3 月15 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,足立香織。聞き取り時点で,杉野芳武さんは,80 歳。2010年,杉野かほるの筆名でおつれあいの杉野桂子さんと『エッセー集 連理の枝』を上梓。囲碁はアマ6 段の腕前で,赤旗主催の棋戦では熊本県代表となって全国大会に出場したこともある。短歌を詠み,随筆も書き,アマチュア無線も楽しむという多才のひとである。 2012 年12 月8 日,原稿確認。2014 年7 月に恵楓園を再訪したとき,白板の7 月の予定表には,入所者自治会の志村康会長,稲葉正彦副会長とならんで,恵楓園を訪ねてくる小中学生相手の説明役として杉野芳武さんの名前も書かれていた。ハンセン病に対する偏見差別をなんとしてでもなくしたいという強靱な意志が,かれらの活動を支えているのであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 80s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Yoshitake Sugino was born in March 1931 in Kumamoto prefecture and sent to Kikuchi-Keifūen on 27th September 1942. He was 11 years old and refused to enter the facility when his mother brought him to Kikuchi-Keifūen. He ran away but came to the facility with his mother again to 'enter the gate.' He said that he was scared to go out. He revisited home after hearing the news that his mother was in a critical condition in 1979. It was the first time for him to return home since entering the facility. There was invisible power to disturb him to visit home for 37 years. It must be the Segregation Policy which affected Hansen's disease patients' lives in the leprosy facilities. Even after the unconstitutionality lawsuit against the Segregation Policy was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court in 2001, there was an incident at a hotel in Kurokawa hot springs in which people from Kikuchi-Keifūen were refused entry, in 2003. The town was Mr. Sugino's home. We were able to hear the details because he was involved in the arbitration for this event as an executive member of the resident association of Kikuchi-Keifūen. The general manager of the hotel visited Kikuchi-Keifūen to submit the 'apology statement' but the resident association refused to accept it. This scene was aired by the national broadcasting network. Subsequently, masses of letters and phone calls criticizing the people in Kikuchi-Keifūen rushed in. According to Mr. Sugino, the general manager had claimed that rejecting the Kikuchi-Keifūen people was the hotel president's decision when Mr. Sugino and his colleague visited the general manager at the hotel. However, the manager changed her word when she came to the facility, saying that the manager herself decided to reject the people. All members in Kikuchi-Keifūen could not see even a tiny piece of sincerity from the 'apology.' This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 15th March 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Kaori Adachi. Mr. Yoshitake Sugino was 80 years old at the time of the interview. Mr. Sugino published the essay book Renri no Eda with his wife Keiko Sugino. He is a skillful 'Go' player with a rank of amateur six-dan, and joined the national Go tournament hosted by Akahata as the representative of Kumamoto prefecture. He is also a man of other talents who enjoys composing thirty-one syllabled verses, writing essays, and operating a ham radio. The interview script was approved by him on 8th December 2012. When we revisited Kikuchi-Keifūen in July 2014, the schedule board in the resident association office displayed that Mr. Sugino worked as the speaker of the explanation of Hansen's disease for young students as Mr. Masahiko Inaba, the vice president of the resident association. The strong determination to abolish the discrimination on Hansen's disease motivates their activities.
著者
TM 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-63[含 英語文要旨], 2009

この調査ノートは,「らい予防法」による「隔離政策」が貫徹していた時代に,ハンセン病を発症しながら,「ハンセン病療養所」に入所することなく生涯を終えた女性を母親にもつある男性のライフストーリーである。TM さんは1945 年生まれ。1956 年ごろ,母親がハンセン病だとの噂が地域社会に広がり始める。1959 年4 月,TM が中学2 年のはじめ,母親は「親戚会議」の決定に従って,「ハンセン病療養所」への入所を回避して,鳥取県から大阪に移住。阪大病院の「らい部門」での外来診療に通院することとなる。4 人の兄と1 人の姉が「逃げて」しまったあと,TM はひとりで母親の面倒をみる。9 年間の大阪暮らしのあと,阪大病院の外来治療に見切りをつけて,母とTM は鳥取県に戻る。TM は出稼ぎをしながら母親の生活を支える。1985年,母親が脳梗塞で倒れ,老人ホームに入所。ここで露骨な差別的扱いを受ける。この時点で,TM は,母親に「よかれ」と思って,「非入所」の生活を支えつづけてきたが,むしろ,ハンセン病療養所に入所させていたほうが母親の老後は幸せだったのではないかと,価値判断の大転換を体験する。このときから,そして,母親が1994 年に亡くなった後も,保健所や県庁を相手に,「らい予防法」に従った適切な対応を怠ってきた責任を執拗に問いつづける。まともに相手にされず,けっきょくは,2003 年,「こまい鉈」で県職員を殴打し,「殺人未遂事件」として刑事事件の被告とされ,「懲役3 年の実刑判決」に服した。TM の"非入所よりはハンセン病療養所に入所していたほうが,母は幸せだったにちがいない"という言説,"行政職員が「らい予防法」に従って適切な対応をしなかったのは問題だ"という言説,そして,"阪大病院のハンセン病治療は,患者家族の経済的立場を十分に考えておらず,治療内容も患者とその家族に十分な説明のないままの診療実験にすぎなかったのではないか"という言説は,2001 年の熊本地裁判決,その後の「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005年)などによって積み上げられてきたハンセン病問題をめぐる現在の共通理解とは,一見対立するかのようである。しかし,わたしたちの理解によれば,TM の語りは,「らい予防法」体制下の「強制隔離政策」というものは,たんに,当事者の意思にかまわず強制的にハンセン病療養所へと患者を引っ張ってきて閉じ込める《収容・隔離の力》だけでなく,社会のなかに患者とその家族の居場所を徹底的になくして,ときに,患者みずからに,あるいは,患者の家族に,療養所への入所を望ませさえする《抑圧・排除の力》をもつくりだすことによって,はじめて機能していたということ。非入所を貫いたということは,この後者の《抑圧・排除の力》を長年にわたって浴びつづけたことにほかならないこと。それへの憤りが,母親の老人ホームでの差別的扱いで一挙に噴出したことをこそ,雄弁に物語っていると読み取れる。TM の語りは,ハンセン病療養所に「強制隔離された生活」が人権を根こそぎ剥奪された生活だったとすれば,「非入所者」としてハンセン病療養所に入所せずに社会のなかで暮らしつづけることも徹頭徹尾心のやすらぎを奪われた生活であったことを,鮮明に物語っているのだ。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.221-248, 2014

ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす90歳代男性のライフストーリー。坂口守義(さかぐち・もりよし)さんは,1916(大正5)年,熊本県生まれ。出征中の中国でハンセン病を発症し,内地に送り返されて,1941(昭和16)年7月,星塚敬愛園に入所。2010年6月20日の聞き取り時点で,93歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。2011年1月23日と4月22日に,語り手本人を前にして原稿を読み上げながらの,原稿確認と補充聞き取りをさせていただいた。補充聞き取りでの語りは《 》で示す。坂口さんの語りからは,「反骨精神を貫いた人生!」との矜持が伺われる。徴兵検査甲種合格で,1937(昭和12)年1月に「入営」後,村の娘から手紙が来ると,班長が「その女に手紙を出すな,と言え」と命じるのに,「わたしにはそのひとにそんなことを言う権利はありません」と,軍隊での「成績」への悪影響をもかまわずに,抵抗。ハンセン病が発症して,内地に送り返された1940(昭和15)年11月,門司港上陸直前に,伸び放題になった髪の毛を刈りにきた看護婦が,完全防護の着衣等に身をくるんでいるのを見て,髪の毛を刈ることを拒否。けっきょく,看護婦長に普段のままの着衣での散髪をさせている。1944(昭和19)年,まだ戦時中に,「外出禁止」の療養所を抜け出して,監視員に見つかり,「監禁」の処分を受ける。監禁が解けた彼に,事務部長が「始末書を書け」と要求するも,すでにいちばん重い監禁の処分を受けただけで十分と,拒否。同じく1944(昭和19)年,園内結婚をした彼は,園側からも自治会からも「断種」を求められるが,拒否。断種しなければ「夫婦舎」に入れないというのに対して,園を抜け出して,故郷の役場で婚姻届を出し,それをもって正式な夫婦であることを園長に認めさせて,「断種」を拒否したまま,1950(昭和25)年時点で「夫婦舎」に入居している。妻が妊娠し,敗血症のため「流産」したときには,胎児を自分で始末し,「妊娠」を疑う女医をやりこめている。さらに,戦後になって,入所者自治会が一定の権限をもつようになり,自治会の主導権争いが激化したなかで,代議士や警察署長を相手にしても,抵抗の姿勢を崩さなかったという。あるいは,金員でもってまるめこもうとする園長に,そのカネを突き返すなど,坂口さんが「敬愛園での生活は抵抗の生活だった」と,みずから評しているのも頷ける。原稿確認の作業が一段落したあと,それまでは言葉少なかった「戦争体験」について,あらためてうかがったところ,じつは,自身の「戦歴」の克明な記録を残している,という。坂口さんは,「兵隊としての体験」を語りたくなかったわけではなく,おそらくは,わたしたちが「ハンセン病者としての体験」を聞きたがっていると判断して,ほとんどもっぱら,ハンセン病体験を語ってくれたものと思われる。一連の追加の語りのなかで,初年兵に「生きた捕虜」を銃剣で刺し殺させる「訓練」にあたったことなども語ってくれた。「いま考えれば,身震いするようなことが,当時は平気でできてしまった」と。こうして,貴重な語りを聞き逃すことを避けられて,聞き手としては,遠慮せずにお聞きしてよかったと思う。なお,語り手が「ふくししつ」と発音していても,時代状況からして,療養所が実質的に「収容所」にほかならず,管理が厳しかった時代の「事務別館」をさす場合には,「事務別館(ふくししつ)」と記載することで,意味と発語の双方を記録できるように工夫した箇所もあることをお断りしておく。また,〔 〕は文意を明確にするための聞き手による補足である。This is the life story of a man living in Hoshizuka-Keiaien, a Hansen's disease facility.Moriyoshi Sakaguchi was born in Kumamoto prefecture in 1916. He was discovered to exhibit symptoms of Hansen's disease while he was fighting in the battlefield in China and as a result, was sent back to Japan. He entered Hoshizuka-Keiaien in July 1941. He was 93 years old at the time of the interview on June 20, 2010. Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Sajik Kim acted as interviewers for this study. The interviewers read the script in front of the interviewee twice on January 23 and April 22, 2011 for revision and approval.When we learned of his life story, we found that he possessed much pride for living a life of resistance.He passed the health check for the military draft and joined the army in January 1937. When he received a letter from a girl in his village, the squad leader said to him, "Order the girl to stop sending letters to the camp." However, he replied, "I do not have the right to order her to do that." This kind of resistance would negatively affect his career in the army but he was not concerned about it.On November 1940, when he was sent back to Japan for having symptoms of Hansen's disease, a nurse visited him to cut his long hair before he landed on Moji but he was offended because she insisted on wearing a fully protective suit out of fear of contracting the disease and refused to let her to cut his hair. In the end, the head nurse cut his hair without the suit.In 1944, during the war, when patients were forbidden from leaving the sanatorium, he went out of the facility without permission. He was caught by the guard of the facility and was subjected to solitary confinement as a penalty. After he was released from confinement, the office head tried to force him to write a formal apology but he refused because he believed that the penalty he had endured was more than enough.In the same year, he got married in the facility. Both the authorities and the self-governing body of the facility recommended him to undergo sterilization but he refused. The officials at the sanatorium would not allow him to live with his wife in the room designated for a married couple within the facility. He sneaked out of the facility and went to his hometown to officially register his marriage. He persuaded the head of the facility that he had the right to live with his wife in the room for a married couple because he was legally married. Ultimately, six years later, the facility allowed him to live in the room without undergoing sterilization. His wife became pregnant but miscarried the baby due to septicemia, so he buried the dead body of the fetus by himself, hiding evidence of his wife's pregnancy.After the war ended, patients within the facility were able to obtain increased rights from officials within the facility. Subsequently, the patients were further factionalized due to an ensuing power struggle from within the group. In order to assuage the intensifying power struggle, a congressman and police chief were brought into the sanatorium to intervene. Sakaguchi did not change his attitude of resistance even toward the congressman and police chief. The head of the facility once tried to bribe him into cooperating but he refused, throwing money in his face. He considered his life in the facility to be a life of resistance.After receiving approval of the interview transcript from Sakaguchi, we asked some questions about his experience during the war that he had barely talked about during the interview. In response, he showed us personal records of various events that had taken place during the war. We learned that he did not intentionally hide what he had experienced during the war, and shared only his experience as a Hansen's disease ex-patient because he thought we were only interested in that part of his life. He did share an additional story about wartime experiences, however. When he was a lance corporal in the army, he trained young soldiers to stab live prisoners of war with a bayonet and kill them. He said that now he realizes it was a horrifying experience but he did it with nonchalance at the time. As interviewers, we thought it would be valuable to ask about his experiences as a soldier to provide a more comprehensive account of his life.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.135-152, 2012

鹿児島県にある国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」で暮らす、70代男性のライフストーリー。 語り手のKKさんは、1934(昭和9)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、21歳のとき、敬愛園に収容される。「ここへは治療しに来たんだ」と、園内での患者作業を一貫して拒否。園内での結婚もしなかった。1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟では、早い時点で原告になって闘った。2010年7月の聞き取り時点で76歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)、北田有希。2010年10月と2011年6月には、補充聞き取りをおこなった。 KKさんがハンセン病の症状に気付いたのは、14、5歳のとき、右手の小指が曲がるなどの、ごく軽い症状だった。ある時期から、保健所職員が療養所入所を勧めに、KKさんの自宅へ来るようになる。21歳のとき、同じ村のYTさんが、ハンセン病の症状が重くなり、敬愛園に入所することになった。KKさんも「家族に迷惑がかかる」と入所を決意。YTさんと一緒の収容バスに乗った。 KKさんは、敬愛園に入所してまもなく、すでに自然治癒し、無菌であることが判明。「無菌なら、なぜ収容したのか。家へ帰せ!」と医者に訴えたが、「予防法があるから」と退所を認められなかった。KKさんは入所後、ハンセン病治療を受けたことは一度もない。手の指に傷ができると、医局では「落としたほうが治りが早い」と切断された。さらに、若いインターンの医者の「実験台」にされて、神経が切られ、顔が歪んでしまった。 KKさんは、国賠裁判の原告に立った思いを「カネじゃない。人間がほしかった」と語る。熊本地裁勝訴後の控訴阻止の闘いの局面では、ひとり、ハンガーストライキをして頑張りぬいた。