著者
鈴木 文治
出版者
田園調布学園大学
雑誌
田園調布学園大学紀要 = Bulletin of Den-En Chofu University (ISSN:18828205)
巻号頁・発行日
no.11, pp.55-80, 2016

本論は、ルカ神学におけるインクルージョン研究として、「異邦人」の理解を取り上げたものである。ルカは『ルカによる福音書』及び『使徒言行録』の著者として知られるが、当時の社会で差別や排除の対象となっている「異邦人」を、ルカ神学ではどのように取り上げ、位置づけているのかを探り、キリスト教におけるインクルージョンの思想や実践を考察するものである。なお、本論は昨年の大学紀要第10号「キリスト教におけるインクルージョン研究-ルカ神学における障害理解-」の続編に当たるものである。さて、「異邦人」とはユダヤ人以外の民族のことを示す言葉である。この「異邦人」をルカはどのように福音の中に位置づけていたのかが、研究テーマである。ユダヤ人は、自分たちが神によって選ばれ、導かれた民として、強固な「選民意識」を持っていた。その選民意識の故に、他民族に対しては排他的・差別的な態度を取っている。ユダヤ人の歴史は、この「選民意識」による他民族への侵略であるが、その背景には何があるのか。また、選びの神ヤハウェは、真実の神を信じない「異邦人」への裁きと同時に、「不信仰なユダヤ人」に対しても裁きを行う。その頂点にあるのは、神による国の滅びである。ユダヤ民族を選び、導いた神が、最後はユダヤ人の不信仰を理由に約束の地を他民族に与え、民族は捕囚の憂き目を見る。このような歴史の過酷さの中でも、神信仰を失わず、選ばれた民の誇りを失わなかったのはなぜか。本論では、旧約聖書における「裁きの神」の強い一面によって、「異邦人」への排他性・攻撃性が正当化され、カナン侵略が描かれている。ユダヤ人のカナン定着の歴史は、他民族の抹殺、殺戮の歴史である。そこには異邦人に対する憐れみ、配慮は見られない。「異邦人」は「異教徒」であるが故に、滅ぼされる運命にあると考えられている。一方、新約聖書におけるイエス・キリストの言動は、「異邦人」に対する排他的・差別的扱いではなく、むしろ異邦人が神の国を継ぐ者との表現に示されるように、好意的に扱われる場面が多く見られる。ルカは、「異邦人」が救いの対象になるのかという議論の渦中にいて、ユダヤ人だけが救いの対象であることの原則を超えて、むしろ頑ななユダヤ人ではなく、異邦人の救いに強い関心を示している。使徒言行録における初代キリスト教会の進むべき道が、大きく方向転換されるようになった経緯が、ルカ神学の随所に見られる。ルカ自身がギリシャ人であり、すなわち異邦人であったという事実が、異邦人の救いへの強い関心を生み出し、キリスト教が世界宗教へと発展する足場を作ったと考えられる。現代社会の大きな潮流に、「インクルーシブ社会」への展望がある。福祉や教育、社会のあり方が、特定のマイノリティの人々を排除・差別するのではなく、包み込む共生のあり方が求められる時代になってきている。キリスト教における「インクルージョン」思想の背景を探り、今日的な宗教的意義について探りたい。それは、とりわけ世界全体が、マイノリティへの排除や差別の方向性に突き進んでいるからである。今日の重いテーマとなっている「異邦人、すなわち他国民との共生」について、ルカ神学が私たちに何を指し示しているのか。ルカの神学における「インクルージョン」思想を明らかにすることが、本論の趣旨である。それは、福音書や使徒言行録に示されている「排除されている人たち」を本質的には教会の宣教の対象としてこなかった現代のキリスト教会のあり方への批判、そして社会全体への批判についての示唆になると考えられる。

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著者
鈴木文治 講述
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
1800
著者
鈴木 文治
出版者
田園調布学園大学
雑誌
田園調布学園大学紀要 = Bulletin of Den-en Chofu University (ISSN:18828205)
巻号頁・発行日
no.7, pp.109-129, 2013-03-25

教育と福祉の連携について様々な取組が行われている。特別支援教育の時代になってからは、特に移行支援の観点からの連携の重要性が指摘されている。学齢期前の児童生徒における地域療育センターから特別支援学校小学部及び小学校特別支援学級への入学段階や、中学校特別支援学級から特別支援学校高等部への進学段階、さらに特別支援学校高等部生徒における学校から社会への卒業段階の課題は、円滑な移行支援のあり方をめぐり、種々のシステムが考案され実施されている。背景にあるものは、特別支援教育の理念と中核となっている個別のニーズへの対応であり、移行支援が単なる引き継ぎではなく、新たな段階を大きな混乱なく乗り越えていくための方策が、福祉と教育の重要な連携課題と見られるようになっている。 例えば、地域療育センターから特別支援学校小学部への入学については、環境の変化に適応することに困難性のある児童が、新しい学校という環境にソフトランディングできるために、入学前の状況を特別支援学校教員が見学し、指導場面の環境を把握し、構造化のための視覚支援カードの共有化を図る等の取組が行われている。また、学校から社会への移行支援に関しては、高等部での教育全体を通して、実際の社会生活をする上で必要な事柄について身につけるための指導が行われている。とりわけ、移行支援教育の鍵となっている、①職業訓練、②自立生活、③余暇活動、④コミュニティ参加、等が教育目標に掲げられ、特例子会社の担当者が職業アドバイザーになって、作業学習を企業の観点から助言を行い、作業所での校外実習の結果を学校の担任に詳しく伝えて、自立活動への助言をする等、実社会と学校との連携が機密に行われるようになっている。 これらは、福祉(家庭)から学校へ、また学校から社会への移行支援教育として、障害のある児童生徒のライフステージでの大きなステップを、スムーズに移行できることのために設定されているものである。 だが、このような移行支援がスムーズに行われず、寄るべき絆からドロップアウトする障害者がいる。ホームレス障害者たちである。なぜ彼らが家庭や施設、会社等から落ちていってしまうのか、社会のセイフティーネットからこぼれ落ちてホームレスになってしまうのか。本論では具体的な事例に基づいて、この点について探ってみたい。 なお、筆者は川崎市南部にある教会の牧師として、20年にわたってホームレス支援活動に取り組んできた。そこで出会った人たちの中から、障害者と思われる人々との関わりの中で知り得た様々な情報をもとに、教育と福祉の連携課題を探る。
著者
鈴木 文治
出版者
田園調布学園大学
雑誌
田園調布学園大学紀要 = Bulletin of Den-en Chofu University (ISSN:18828205)
巻号頁・発行日
no.12, pp.37-65, 2018-03

キリスト教におけるインクルージョン研究の第三弾として,ルカ神学の「貧しき者」を取り上げる。ルカは医師であり,ギリシャ人である。医師という客観的・科学的に対象を分析する視点があり,また,彼の生きた時代の重圧の中で人々の苦しみに直接手を触れる場面を多く体験した人物である。彼の語る福音書には,同じ出来事を記した共観福音書と比較すれば,ルカの視点の特徴が明確になっている。それは,事柄を何か精神主義的なものに解釈したり,時代的・政治的背景に配慮するような記述の傾向は少なく,事実を事実として捉えようとする意図が浮かび上がってくる。ギリシャ人であること,すなわち異邦人としての視点からは,ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤ人とは一歩距離を置いた位置に立ち,政治的状況からの影響もあまり受けていない。このことが,事実を事実として把握する論調になっている。最も分かりやすい例は,マタイとの比較である。マタイは,「心の貧しい者」と記すのに対して,ルカは端的に「貧しい者」と表している。これはマタイが単純な貧しさではなく,心の貧しさ,精神の貧しさに触れていることは,マタイの持つ精神化,内面化の傾向の強さと同時に,ローマ帝国の植民地であるユダヤの置かれている政治的な状況を念頭にした表現であることが理解できる。すなわち,ローマ帝国の植民地政策の最大の関心事は,ローマへの反逆,抵抗運動を封じ込めることにある。貧しい者それ自体がローマ帝国への反逆分子となりうる可能性を持った人々ということになる。そのまま貧しき者という表現は,ローマ帝国への潜在的反逆者を意図すると考えられる恐れがあり,「心の貧しき者」という精神主義的表現を用いざるを得なかったと考えられる。ルカは自身が見聞きする事柄を直截に述べている。「貧しい者」,「今飢え渇いている者」,「今泣いている者」という,まさにルカの目の前にいる人々の「生の姿」を描くことによって,人間存在を描き出していて,臨在感のある言葉になっている。当然,彼らの前に立つキリストの言動も臨場感の迫る活き活きとした姿に描かれている。それが,ルカ神学の特徴である。では,ルカはこのような「貧しい者」をどのような視点から描いているのか。それはユダヤ教の時代の貧しい者の理解とは,どう異なっているのか。さらに,今日のインクルージョンの観点から,ルカの描く「貧しい者」の理解を探るのが本論の趣旨である。同時に,聖書における「貧しさ」の問題は,正に今日的世界的な課題となっていることを踏まえて,今日の「貧しさ」の意味と,その救済について触れてみたい。それは,論者が,現代の貧困の象徴であるであると考えられるホームレスの支援活動に,25 年間関わってきたことと関係している。そこで知らされる現代の貧困の課題と,ルカ神学の貧困の課題との対比を試み,インクルージョンのあり方に迫りたい。
著者
鈴木 文治
出版者
田園調布学園大学
雑誌
田園調布学園大学紀要 = Bulletin of Den-en Chofu University (ISSN:18828205)
巻号頁・発行日
no.8, pp.17-48, 2014-03-25

特別支援学校では,児童生徒の教育的ニーズや学校の置かれた地域性を考慮して,教育課程を編成することが学習指導要領に記されている。それは,児童生徒を取り巻く様々な環境的要因を考慮し,また保護者や地域住民の要望,さらには時代的要請などを盛り込んだ教育目標の設定,教育の展開が求められているからである。教育の持つ普遍的な価値の実践をふまえつつ,一方で学校独自の教育の展開が期待されている。私は8年前に「神奈川県の特別支援学校のモデル校」として開設された神奈川県立麻生養護学校の初代校長を務め,学校独自の教育の展開を試みてきたが,本論は,その独自性の一つである全国初の「高等部の芸術コース」を取り上げ,「芸術コース」の意図する背景にあるもの,またその教育的成果について考察するものである。障害児教育における「美術・音楽・工芸」という芸術活動は,特別支援学校のみでなく,卒業後の福祉施設でも重要な位置づけとなっている。そのような芸術活動を高等部の教育の中核として位置づけた背景にあるものや,8年間の教育実践で見られる教育的成果について改めて検討したい。また,本論で取り上げる内容は,特別支援学校での教育実践だけでなく,インクルージョンの理念から見る芸術活動の意義についても考察している。これには次のような背景がある。開校以来,全国から教員を始めとする関係機関の人々が学校見学に訪れ,その中に文部科学省や厚生労働省の担当者がいた。彼らは芸術コースの取組を見学した後,このような活動が社会自立を目ざす障害児の教育に相応しいものかと発言し,障害者にとって,就労や自立のために労働意欲や体力を培う教育が本筋であり,芸術活動の取組は重要ではないと言い切った。障害者にとっての芸術活動は,教育的な意義においても社会自立のためにも極めて重要であるとの主張は認めてもらえなかった。従来から教育現場においては,芸術科目は基礎教科(国語,数学等)に比して一般大学の入試科目からも外されていることもあり,重要な教科と認められていない傾向がある。障害者にとっても「癒しの活動」と位置づけられるため,その活動の本来的な意義は十分に認識されていない。芸術活動は人間形成の上で最も重要な要素であり,教育上必須のものであるが,一般的にも専門家の間でも十分には理解されていない。その背景には,知育教育の偏重の根幹にある受験教育がある。全国初の芸術コースの設置を疑問視したことは,文部科学省や厚生労働省での,また一般社会における芸術活動への無理解が示されたものと見て取れる。しかし,開校後7年経った全国の特別支援学校校長会の冒頭の挨拶で,文部科学省の調査官は麻生養護学校の芸術コース設置の取組を紹介し,その意義を高く評価する発言をした。7年経って再評価された背景にはいったい何があるのだろうか。障害者の芸術活動の取組の拡大や,東日本大震災後のアートによるワークショップの充実が知れ渡ったこともあるのだろう。だが,文部科学省の芸術コースの評価が芸術活動への高揚には結びつかず,全国には芸術コースの置かれた特別支援学校は,その後一校だけ増えたに過ぎない。そのことは障害者のみならず,一般の教育における芸術活動への低い評価が払拭されていないことを示している。古く障害者や高齢者などの様々なニーズのある人々を対象に行われてきた芸術活動は,「芸術療法」として行われてきた。音楽療法や絵画療法,演劇療法,創作療法(俳句・短歌),工芸療法(工作や手芸)などがそれに当たる。これらは学校や福祉施設,病院などで広範に行われているが,「療法」として位置づけされている背景には,「病んでいる人」を対象に「社会自立」のための一環とされているからである。病人や障害者を対象とすることは,その活動を通して社会自立させる要因を内部に生じさせ,健常な人間を育成するという動機が伺えるからである。人間そのものを作り上げていく重要な教育的観点としての芸術活動からは,「癒しの芸術療法」とは依って立つ基盤が根底から異なっている。インクルーシブな社会を目指す今日的な考え方では,「療法」という用語には,「病人や障害者を癒すことにより,健常者に近づけ,社会自立を目指す」という発想が見て取ることができる。つまり障害者を健常者にするための芸術活動という考え方がある。しかし,そもそも芸術活動とは何か,また障害者を対象にした場合には「療法」として位置づけられているが,芸術活動は本質的に「療法」という領域に押し込められるものであるのか。とりわけ「インクルージョン」の理念による社会のあり方が求められている現在,障害者の芸術活動の意義を探ってみたい。