著者
鈴木 正夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.120, no.1, pp.241-260,

魯迅は長く日記をつけた。その日記は彼の没後に公刊された。その1929年6月20日の条に、内山完造の招きに応じた会食の場で横山憲三なる人物と同席したとの記述がある。『魯迅日記』の注釈には、この横山は中国杜会情況研究のために上海に居住したことになっている。この注釈は内山完造の教示によるものと思われる。ところがこの横山は、軍の特命を受けて諜報活動のために上海に派遣され、身分を秘匿して共産党の動向などを探っていた憲兵大尉であった。魯迅の周辺には若い共産党員らがいた。内山完造の経営する内山書店には、日中の様々な人士が出入りした。横山は魯迅の人脈を調べ、内山書店を足場とした諜報活動をしなかったろうか。魯迅は横山の正体をついに知ることはなかったと判断される。一方、内山完造は営業のために魯迅の名声を利用し、商取引を通じてにしろ日本軍との個人的パイプをもち、それを利用して中国人を軍から護ったと言いうると考える。
著者
鈴木 正夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.116, pp.61-93, 2009

太平洋戦争勃発によって、上海は全面的に日本軍の支配下に入った。柯霊はあえてここに止まり、演劇活動や雑誌の編集活動に携わりながら、抗日的姿勢を崩さなかった。そのために抗日戦勝利までに2度、日本の憲兵隊に逮捕された。2度目は死線をさまようほどの苛酷な拷問を受けた。戦後間もなく、彼はその憲兵の蛮行を8首の打油詩にしたため、「獄中詩記」として発表し暴露した。李健吾も同じ憲兵隊に逮捕され、これまた残酷な拷問を加えられた。李健吾は戦後、3篇の文を書いて、これを訴えている。戦時中、人気作家になった張愛玲は、柯霊がその育成に与ったところがある。柯霊の最初の逮捕時、拷問に会わなかったのは、張愛玲の夫で漢奸の名高い胡蘭成の働きかけがあったことを柯霊が知って、複雑な感情を抱くとともに、張愛玲に感謝するのは、戦後長くたってからである。抗日戦勝利前後の柯霊を中心に、これらの状況を考察した。

1 0 0 0 OA 俚謡:相馬節

著者
鈴木 正夫
出版者
リーガル
巻号頁・発行日
1931-12