著者
阪本(後藤) 純子
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.1075-1083, 2011-03-25

ヴェーダ文献(紀元前1200-500年頃)に残る太陰太陽暦では,月の形態および月と白道近辺の恒星の位置関係により月日が決定される.祭式の日時を決定するために月の朔望と運動が注意深く観察され,naksatra-「月宿」の概念が成立する.月は朔から朔の間(1朔望月:約29.53日),白道近辺にほぼ等間隔に位置する恒星(群)に順次近づき,朔の夜(amavasya-)には太陽と合一して姿を消す.これらの恒星(群)(RVでは太陽を含む)はnaksatra-「(月が)到達する所」「月宿」と呼ばれ,月と恒星との位置関係を示す指標となる.krttikas(Pleiades昴)を起点とするこれらの恒星(群)は,ヨーロッパ青銅器時代の考古学遺品(Nebra Sky Disk)が示唆するように,ヴェーダ期を遙かに遡る古代に起源を持つ可能性がある.Naksatra崇拝や婚姻・戦闘等のために吉祥なNaksatraを選ぶ風習は,光(太陽・火)を崇め闇・夜を避ける傾向の強いヴェーダ祭式よりも,むしろ民間儀礼において発達し,部分的にシュラウタ祭式に取り入れられた形跡が伺える.Naksatraの列挙はAtharvaveda XIX 7,Yajurveda-Samhitaマントラ(Agnicayana火壇第五層のNaksatra煉瓦:Maitrayani Samhita II 13,20,Kathaka-Samhita XXXIX 13,Taittiriya-Samhita IV 4,10),Taittiriya-Brahmanaマントラ(15,1:Naksatra祭?),マントラと散文(III 1:Naksatra献供)に見られ,さらに部分的にTB散文(I 5,2-3:Naksatra解説)にも残るが,いずれも後代の補遺部分とみなされる.これらのNaksatraの列挙は,朔望月に基づく28 Naksatra方式と恒星月に基づく27 Naksatra方式に分類されるが,前者は月と恒星の位置を正確に反映せず,後者は朔望月の日付と対応しない.この矛盾を解決するために,上記Agnicayanaのマントラおよびシュラウタ・スートラでは,本来は次元の異なる概念である満月・朔の夜を27 Naksatraに付け加えるなどの工夫が試みられる.より平易な28方式は一般大衆の民間儀礼に好まれ,より正確な27方式は祭官学者間に普及したことが上記文献から推測される.(後者はJyotisa以降の天文学において黄道の均等な27区分に変質する.)
著者
阪本(後藤) 純子
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1117-1125, 2010-03-25

Rgvedaから古Upanisadに至る紀元前500年頃までのヴェーダ文献に残る暦は,太陽日,朔望月,太陽年の組み合わされた太陰太陽暦であるが,夜空に現れる月の形と位置とを基本とする.月の形態変化は朔望月と対応するが,月の位置は白道近辺の恒星との関係により測られ,恒星月と対応する.夜空の月と星が暦の目印であるから,本来は,夜の始まる日没から次の日没までが1暦日であったが,時代と共に日の出から始まる暦日に変化する.夜により,その夜とそれに続く昼を表現する例ならびに夜により暦日を数える例は,Brahmana,Srautasutraに数多く見られる,Agnihotraにおいて,常に日没のAgnihotraが日の出のAgnihotraに先行し,規範とされることは,古い暦日の反映であろう.さらには,新月満月祭が起源においては,朔ないし満月の日没に開始した可能性も否定できない.1暦月は,太陽との合により月が現れない朔の夜amavasya-から始まる.新月満月祭Darsapurnamasauにおいて新月祭が満月祭に優先することと対応する.月は朔から朔の間(1朔望月:約29.5日),白道近辺にほぼ等間隔に位置する恒星(群)に順次近づき,または重なり,朔には太陽と合一して姿を消す.これらの恒星(群)(太陽を含む)はnaksatra-「(月が)到達する所」と呼ばれ,RV以来知られる.Naksatraの数は,本来は朔望月に基づき28(ないし29)であったが,恒星と月との位置関係のずれが大きいことから,恒星月(約27.3日)に基づく27 Naksatra方式が(特に学術文献で)より好まれるようになったと推測される.男性神である月が夜毎に異なるNaksatra(女性神格)を訪れ宿泊するという観念が古くから見られる.Rgveda X 85は朔における月と太陽の合を,月である王Somaと太陽女神(Savitrの娘)の結婚として描写し,また朔におけるSoma献供が新月を増大させることを述べて新月祭の起源を暗示する.黒Yajurveda-Samhita散文ではPrajapatiの娘であるNaksatra達と月(王Soma)との結婚が月の朔望の起源とともに述べられる.Sathapatha-Brahmana I 6,4では新月祭の供物の根拠付けとして,月と太陽の運動が説明される:Indra(太陽と等値される)も月も朔の夜には大地に宿る;Indraないし神々の食物である月(Soma)が天地を循環する;朔には,月であるVrtraが太陽であるIndraに飲み込まれ吸い尽くされた後,吐き出されて,再び新月として出現し増大する.【暦年,Naksatra,新年,季節等は続編で扱う.】
著者
阪本(後藤) 純子
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.1075-1083, 2011-03-25 (Released:2017-09-01)

ヴェーダ文献(紀元前1200-500年頃)に残る太陰太陽暦では,月の形態および月と白道近辺の恒星の位置関係により月日が決定される.祭式の日時を決定するために月の朔望と運動が注意深く観察され,naksatra-「月宿」の概念が成立する.月は朔から朔の間(1朔望月:約29.53日),白道近辺にほぼ等間隔に位置する恒星(群)に順次近づき,朔の夜(amavasya-)には太陽と合一して姿を消す.これらの恒星(群)(RVでは太陽を含む)はnaksatra-「(月が)到達する所」「月宿」と呼ばれ,月と恒星との位置関係を示す指標となる.krttikas(Pleiades昴)を起点とするこれらの恒星(群)は,ヨーロッパ青銅器時代の考古学遺品(Nebra Sky Disk)が示唆するように,ヴェーダ期を遙かに遡る古代に起源を持つ可能性がある.Naksatra崇拝や婚姻・戦闘等のために吉祥なNaksatraを選ぶ風習は,光(太陽・火)を崇め闇・夜を避ける傾向の強いヴェーダ祭式よりも,むしろ民間儀礼において発達し,部分的にシュラウタ祭式に取り入れられた形跡が伺える.Naksatraの列挙はAtharvaveda XIX 7,Yajurveda-Samhitaマントラ(Agnicayana火壇第五層のNaksatra煉瓦:Maitrayani Samhita II 13,20,Kathaka-Samhita XXXIX 13,Taittiriya-Samhita IV 4,10),Taittiriya-Brahmanaマントラ(15,1:Naksatra祭?),マントラと散文(III 1:Naksatra献供)に見られ,さらに部分的にTB散文(I 5,2-3:Naksatra解説)にも残るが,いずれも後代の補遺部分とみなされる.これらのNaksatraの列挙は,朔望月に基づく28 Naksatra方式と恒星月に基づく27 Naksatra方式に分類されるが,前者は月と恒星の位置を正確に反映せず,後者は朔望月の日付と対応しない.この矛盾を解決するために,上記Agnicayanaのマントラおよびシュラウタ・スートラでは,本来は次元の異なる概念である満月・朔の夜を27 Naksatraに付け加えるなどの工夫が試みられる.より平易な28方式は一般大衆の民間儀礼に好まれ,より正確な27方式は祭官学者間に普及したことが上記文献から推測される.(後者はJyotisa以降の天文学において黄道の均等な27区分に変質する.)