著者
阿部 志朗
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.60, 2009

島根県西部石見(いわみ)地方で19世紀半ばから生産されてきた陶器「石見焼」の、三斗~六斗の容積の水甕(「はんど(はんどう)」)は、古くは北前船と総称された日本海海運で、さらに大正時代の山陰線の全通以後は鉄道貨物として、おもに日本海沿岸地域を中心に全国的に広く普及した。これまでその流通・分布の実態について報告されたことはほとんど無かったが、北海道~北陸の北前船寄港地の資料館や旧家で石見焼の水甕が現存することを先に報告した(阿部 2008)。それらの水甕には出荷向けの石見焼特有の刻印や墨字が印されていることが分かった。これらの印を参考に「石見焼」の産地同定や、近世・近代における石見焼の流通過程について考察する。方法として「石見焼」の水甕の有無について兵庫県以北の日本海沿岸の市町村に対するアンケート形式の調査とそこから得られた回答をもとにして実施した現地調査をもとに、近世末~近現代の石見焼の分布と流通の実態を把握する。アンケート調査では、兵庫県~北海道の日本海および津軽海峡に面した多くの市町村から石見焼らしい水甕が「ある」という回答と、写真資料も届けられた。それらの水甕の底面にある刻印や墨字から、石見地方で生産されたことが断定できる「石見焼」と石見焼の特徴が強い「石見系」の水甕に分類した。この分類を踏まえ、本州~北海道の「石見焼」および「石見系」の水甕の分布を概観すると、いわゆる北前船寄港地として知られる諸港とその周辺に刻印や墨字を含む古いものが存在すること、能登半島など半島先端部には「石見焼」が多いが半島の基部にはほとんど見つからないこと、青森県の日本海沿岸・津軽半島では存在が確認できたが、下北半島周辺ではほとんど見られないこと、などから日本海側ルートで船(北前船)で流通したことが考察できる。一方、稚内市~函館市までの日本海沿岸の市町村(島嶼部と積丹半島を除く)で行った現地調査では、ほぼすべての市町村で「石見焼」「石見系」水甕の存在が確認できた。とくにニシン漁関連の施設にはすべて「石見焼」水甕があり、飲み水用として六斗サイズの大物が用いられていたことが分かった。また、調査の中で大型で茶色の水甕だけでなく、小型の白い甕にも「石見焼 ○製」の刻印があるものが多数見つかった。このような刻印の甕類が多いのは、同じ沿岸部でも移住・開拓の時期が早い地域である。島根県西部は鉄道の開通が大正時代の後半に下るため、それまでの製品は船で運ばれ、徐々に鉄道輸送に移行する。石見焼の水甕は古いものは「入れ子状」のセット販売、戦後の新しいものは単品での販売・輸送というように製法・形状の変化よりも輸送形態や販売方法の変化が顕著であるが、北海道では本州にあるような明治中期までの「石見焼」は松前、江差以外ではほとんど見つからず、北に行くほど単品販売の形態の新しいものが多く現存することが分かった。北海道での移住・開拓の進展と石見焼流通時期とも少なからず関連するようにも考えられるが、この点についてはさらに精細な検討が課題である。