著者
稲木 一元 杵渕 彰 石野 尚吾 江川 充 佐藤 弘 青山 廉平
出版者
The Japan Society for Oriental Medicine
雑誌
日本東洋医学雑誌 (ISSN:02874857)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.73-80, 1986-10-20 (Released:2010-03-12)
参考文献数
40

加藤謙斎 (1669~1724) と『医療手引草』について, 謙斎の『縦衡良方』自序と『手引草』により検討した。謙斎の医学は, 治療効果を常に重視するもので, 素問霊枢は, 基礎的な臨床技量を持った後で読むべきものと位置づけられていた。謙斎の師は, 張〓路玉と北山友松子だと自から言うが, 書の上のことである。なお名古屋玄医とは近い関係にあったらしい。『医療手引草』の成立には, 謙斎の子の玄順の比重が極めて大きいと思われた。次に, 目黒道琢『餐英館療治雑話』への引用を検討した。その結果, 日本の諸家の引用中, 謙斎は, 香月牛山, 和田家に次ぎ第3位だったが, 傷寒論・金匱要略の処方を扱った上巻では和田家とともに第1位だった。また謙斎に対して敬語の使用された部分があった。内容でも, 治療原則の引用部分があった。以上より, 目黒道琢が, 謙斎と『手引草』から受けた臨床的影響は少なくないと思われた。
著者
青山 廉平
出版者
社団法人日本東洋医学会
雑誌
日本東洋醫學雜誌 (ISSN:02874857)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.287-303, 2003-03-20
被引用文献数
1

『医断』は吉益東洞の医説を,門人の鶴田元逸が集録したが,その刊行を見ずに死亡したので,同門の中西深斎が改補し,「虚実」の編を追加して,宝歴九年(1759)刊行されたものである。東洞の独創的医説を強烈にアピールした,センセーショナルな著述で,「司命」「死生」以下「元気」「脈候」「腹候」「臓腑」「經絡」「引経報使」「鍼灸」「栄衛」「陰陽」「五行」「運気」「理」「医意」「痼疾」「素難」「本草」「修治」「相異相反」「毒薬」「薬能」「薬産」「人〓」「古方」「名方」「仲景書」「傷寒六経」「病因」「治方」「禁宜」「〓数」「産褥」「初誕」「痘疹」「攻補」「虚実」の37論よりなり,東洞の思想を端的に記載している。この書が刊行されて三年後に,畑黄山が『斥医断』を著して,「鶴氏の編する所,吉益子の医断を読むに書を廃して歎ず。大意す可きもの三,流悌を為す可き者の二,其の佗理に背き道を傷りし者,〓ねく挙ぐること難し。云々」と概歎し,全編43章にわたって,『医断』の各論をとりあげ,東洞の説にはげしい論駁を加えた。以後,『医断』の「死生」論における天命説を中心として,賛否両論にわかれ,はげしい論戦が展開された。堀江道元『弁医断』田中栄信『弁斥医断』,小幡伯英『弁医断評説』,加屋恭安『続医断』などの書物も出版されて,江戸時代最大の医説論争が長く尾を引くこととなった。いま,『医断』・『斥医断』の二書の一端をとりあげて,江戸時代に行われた医説論争の一面を窮うこととする。