著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学
雑誌
安田女子大学紀要 = Journal of Yasuda Women's University (ISSN:02896494)
巻号頁・発行日
no.48, pp.33-42, 2020-02-28

竹島問題を機に、日韓両国間の摩擦が激しくなっている中、東京の新大久保で、「韓国」を排斥する排外主義的デモが展開されるなど、特定民族や人種を排撃する、所謂「ヘイト・スピーチ」の問題は放置しておけない状況にある。ヘイト・スピーチを規制しようとすると、その発信者は「言論の自由」を盾とすることだろう。規制の楔を打っても、それが「滑り易い坂道」議論によって、解釈の恣意性を招き、「言論の自由」そのものをも脅かす可能性がある、といった議論がなされる。本論文では「言論の自由」という価値観の重要性にもかかわらず、それでも「ヘイト・スピーチ」を規制し得る可能性を探る。
著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学大学院
雑誌
安田女子大学大学院紀要 = The journal of the Graduate School, Yasuda Women's University (ISSN:24323772)
巻号頁・発行日
no.24, pp.79-89, 2019-03-31

私達は,「生きるために働く」という理屈によって,自分の労働を正当化しようとする。日々,生活の糧を得るために,嫌な仕事であろうが辛い仕事であろうが,「生きるためには働かなければ」と自分に言い聞かせながら働き続けている。しかし,「過労死問題」は,「生きるために働く」という,この正当化の陰にあって決して光が当てられることのなかった選択肢の存在,即ち,「生きるか,あるいは働くか」に気付かせてくれる。高橋まつりさんが亡くなる前に残した「生きているために働いているのか,働くために生きているのかが分からなくなってからが人生」と書き込みに表現されているように,彼女の場合,「働くこと」と「生きること」は,あたかも鳥もちで分かち難く貼り付いてしまっており,「生きる」ために「働く」を選択しないという可能的なあり方に向かう扉が閉ざされてしまっていた。本論考では,「生きるか,あるいは働くか」という選択肢に示される可能性を,ハーマン・メルヴィルの小説『書記バートルビー』の読解によって得られる政治的な可能性と重ね合わせることによって追求する。バートルビーのように,「生きること」と「働くこと」に分断線を刻み入れることで見えてくる「非意味」という名の政治的抵抗の可能性に道を開く。
著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学大学院
雑誌
安田女子大学大学院紀要 = The journal of the Graduate School, Yasuda Women's University (ISSN:24323772)
巻号頁・発行日
no.26, pp.41-51, 2021-03-31

ハラリが指摘している通り,人間は「フィクション」を操ることでこの世に君臨する生き物になった。「フィクション」という夾雑物なしでは,生きることのできない,実に不可思議な生き物となったのだ。それゆえ,個人の問題に関しても,人間は自分の「自己イメージ」という,自己にまつわるフィクションを介して自分自身と関係する生き物になった。フロイト経由で,ラカンが指摘しているように,人間関係はどうしても4者関係になってしまう。私とあなたの間に私の「自己イメージ」とあなたの「自己イメージ」が介在してしまうからだ。本論考は,「イメージ」を介在させずに,人間関係を築くことは可能なのだろうか,という問いを立て,その答えを見出すべく議論を展開している。
著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学
雑誌
安田女子大学紀要 = Journal of Yasuda Women's University (ISSN:02896494)
巻号頁・発行日
no.46, pp.1-10, 2018-02-20

プラトンは、利己主義的な個人を道徳に従わせるにはどうしたらいいのか、という問いに答えを見出そうとした。プラトンにとって、民主制に対応する人間類型は、「必要な欲望」と「不要な欲望」という区別がなくなった人間なのである。つまり、自由・平等を謳う民主制には、本来は「不要な欲望」にカテゴライズされるべき欲望を追求する利己主義的個人が跋扈することになるという、プラトンが最も忌み嫌う脆弱性が存在している。こうしたプラトンの目から見れば、堕落した政体である民主制には、人間類型としての利己主義という問題が浮き上がってくる。彼の主著とされる『国家』では、まさに、この「利己主義」の問題が取り扱われている。本論考において、利己主義に対するプラトン的処方箋とはどのようなものだったのか、という問いを扱うが、その処方箋が現代社会においては、うまく機能しなくなっていることを示す。
著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学大学院
雑誌
安田女子大学大学院紀要 = The journal of the Graduate School, Yasuda Women's University (ISSN:24323772)
巻号頁・発行日
no.23, pp.153-169, 2018-03-31

本論文では,動物を正義論の文脈の中で捉え,少なくとも残酷な扱いから動物を守るというプラグマティックな目的のために,動物に権利を付与することは可能かどうかという問いに答えを見出そうと思う。特にこの論考において,「虐待されない権利」と「機会の自由」を人間以外の動物に付与する道を検討する。もし「正義の原理」を選択するための手続きに参加する能力がないような存在者だとしても「誰のための正義なのか」という正義の受益者としての地位が与えられる可能性は十分にあるとしたら,動物をそうした受益者の集合に組み入れることは可能だろうか,という問いの下,その可能性を論じていく。
著者
青木 克仁 Katsuhito Aoki
出版者
安田女子大学大学院
雑誌
安田女子大学大学院紀要 : 合冊 = The journal of the Graduate School, Yasuda Women's University : compiled editon (ISSN:24323772)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.153-169, 2017

本論文では,動物を正義論の文脈の中で捉え,少なくとも残酷な扱いから動物を守るというプラグマティックな目的のために,動物に権利を付与することは可能かどうかという問いに答えを見出そうと思う。特にこの論考において,「虐待されない権利」と「機会の自由」を人間以外の動物に付与する道を検討する。もし「正義の原理」を選択するための手続きに参加する能力がないような存在者だとしても「誰のための正義なのか」という正義の受益者としての地位が与えられる可能性は十分にあるとしたら,動物をそうした受益者の集合に組み入れることは可能だろうか,という問いの下,その可能性を論じていく。