著者
韓 韡
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.129-147, 2013-09

本論は、従来の研究で注目されてこなかった清末「日本型教育体制」の成立における女子教育と日本モデルという問題を、女子手芸科目という視点から考察した。その結果、清松の女子師範学堂および民国の女子中学校と女子師範学校のカリキュラムに組み込まれた手芸科目「編物・組糸・嚢物・刺繍・造花」が、明治三十四年文部省発布の「高等女学校令施行規則」における随意科目の手芸内容の模倣であることを明らかにした。そして、富国強兵の方策を模索していた清末の教育視察者が、実業技能として教授された明治期の手芸が女性の職業と結びつき、国家の産業発展に貢献しているのを見て、またそれが伝統的な婦徳にも合致するため、中国でもこれを実現しようと意図的に中国の女子教育に組み込んだ結果であることを論証した。 しかし、中国に導入された手芸は、実用性がないものとして教育関係者から批判された。手芸が日本のような大きな発展を見せなかった理由の一つとして、教育制度の導入に際し、日本の高等女学校では随意科目とされた手芸科目を裁縫や家事と同様の家政科目として取り入れたことが考えられる。さらに、日本における手芸は、女子教育の中で実業技能という位置づけであったが、中国においては近代的産業の未発達が女子実業教育の社会的実利を妨げたため、実業教育としての手芸が成り立たなかった。また、日本では産業全体と女子実業教育の発展とが連動しており、手芸の中でも開化趣味に合った「編物」と「造花」は、明治後期にはすでに女性の職業の一つとして成立していた。一方、中国では、原材料すら日本からの輸入に頼らなければならない「編物」と「造花」は、その物自体も単なる装飾品・奢侈品として認識されるにとどまった。近代女子教育に導入された手芸は、当時の社会状況と産業経済の未熟さによって、日本のような職業と結びついた実業として発展を遂げることができなかった。