著者
渡部 貞清 高嶋 猛 福井 宇洋
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
建築雑誌 (ISSN:00038555)
巻号頁・発行日
vol.98, no.1211, pp.34-43, 1983-09-20
著者
高嶋 猛
出版者
福井大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

永瀬狂三(明治10(1877)〜昭和30年(1955))は、東京帝国大学卒業(明治39年)後、横浜・大阪で民間の設計事務所で設計活動を行っていた。その後京都帝国大学の創立に伴う建築部の設置(明治40年)直後の明治42年から退職する昭和4年までの20年間、同大学の営繕組織の一員として建築の設計に従事した。その間大正8年からの10年間は組織の長であった。京都キャンパスでは初代建築部長山本治兵衛や建築学科教授武田五一の存在が大きかったためか永瀬個人の代表的作品は少ない。その中でキャンパス外の大分県別府市の京都帝国大学別府地球物理学研究所(大正12年)や、京都大学以外の大和田銀行本支店(福井県、昭和2年)、敦賀町庁舎(福井県、昭和8年)では京都大学キャンパスとは違った自由な意匠で設計を行っている。このことから、永瀬狂三はこれらの建築において自由に実力を発揮でき、また永瀬の建築観をよく示していると考えられる。山田七五郎(明治4年(1871)〜昭和19年(1944))は、東京帝国大学卒業(明治32年)後、福岡医科大学、長崎高等商業高校の創立時の営繕組織に関わり、明治38年から大正2年までは長崎県技師を勤めた。大正3年からは横浜市に移り、大正9年からは初代横浜市建築課長となり、昭和4年の退職までの30年間を官庁の営繕組織の一員として設計活動を続けた。この中で特に長崎県時代の明治37年〜43年までの第二課(土木課)事務簿から当時の営繕の職務内容や仕事の推移が把握された。技師としては、議会で答弁を行う立場であり、また皇室の来県では関係施設の設計を自ら行うなど、組織内での位置づけが把握された。また永瀬同様、森田銀行本店(福井県・大正9年)等の営繕組織外の設計活動の位置づけの需要性を知ることができた。