著者
齋藤 捷一 高畑 美代子
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.37-61, 2004

英国の女性旅行家イザベラ・バードの書いた『日本奥地紀行』( Unbeaten Tracks in Japanの一部)の青森県碇ヶ関村での記述を当時の公文書やそれに近い時代に書かれた紀行等を読みながら辿っていく。彼女が越えた矢立峠を、江戸時代にそこを通り過ぎて行った人々(菅江真澄や吉田松陰等)の紀行と比較対照して、西欧文化を基盤にした視点と日本文化に基づいた視点の差異を考察した。 またバードが記したオベリスクを検証し、オベリスクと青森県大鰐町にある「石の塔」との関係について検討した。次に、彼女が青森県に入った日の大雨を公文書や当時の家日記等の文書を用いて、事実確認をした。 さらに、当時の村の宿屋や産業、公共施設などの状況を調査した。同時に、万延元年(1860)に書かれた紀行等から彼女の止宿先を後の葛原旅館と認定し、江戸時代の旅籠宿葛原から彼女の止宿した其の後までを追跡できた。また、彼女の碇ヶ関でのコミュニケーションを考察する資料を発掘し、宿の亭主(house-master)や彼女の出会った戸長(Kôchô)の人物像に迫ることができた。バードの記述から出発し、江戸末期から明治時代にかけての碇ヶ関を文書資料と多角的視点で、当時の碇ヶ関の復原を試み、再びその情報をバードに返すことにより、より深いイザベラ・バードの理解に繋げられると考えた。
著者
高畑 美代子 齋藤 捷一
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.113-138, 2004

明治11年(1878)に英国の女性旅行家イザベラ・バードは北日本を「蝦夷」へ向かって旅をしていた。蝦夷への汽船の出る青森港を目前にして、彼女は県境の碇ヶ関村で大雨に足止めされ4日間を過ごした。彼女はそこで眼にした大雨の矢立峠や洪水に見舞われた村人の様子を書いている。水が引くのを待つ間に彼女は、休暇中の子どもたちが甲虫、水車、凧、カルタをして遊ぶ姿を描いた。同時に彼らは休暇後の試験に向けてまじめに勉強する子ども達でもあった。碇ヶ関での現地調査と文献を基に、彼女の記述を辿り、青森県の学校事情を踏まえて明治の子どもを取り巻く環境と津軽の地域子ども文化の復原を試みた。 また、翻訳された『日本奥地紀行』は初版の2巻本に基づくものではなく、碇ヶ関ではカルタ遊びの部分が未訳となっているので翻訳紹介をした。これらはいずれも、研究者により1巻本の省略の要因のひとつとされてきたブラキストンの指摘にかかわる部分を含んでいる。ブラキストンが『蝦夷地の中の日本』において、バードの記述の問題点として指摘した中に、グリフィスの名前がある。彼の『明治日本体験記』の中には、バードの記述との類似が見られる。そこでグリフィスとバードの記述の比較をした。 子どもの遊びを検証する一方で、彼女の滞在した碇ヶ関の宿屋・店屋や登場する人々の特定をした。その葛原旅館は現存しないもののバードが来たことを伝聞された曾孫から話を聞くことが出来た。また戸長と宿の亭主が兄弟であったことや彼女と話を交わしたと思われる人々が揺籃期の明治の教育制度の中で重要な位置を占めていたことなど彼女の記述の裏づけとなる背景がわかった。また橋や災害の記述の正確さを示す史料も見つけることができた。 しかし子どもの遊びに関しては、特に津軽では史料の多い凧の記述などからバードは見たままを描いたのではなく、碇ヶ関という場で彼女がとても好きだという「バードの日本の子ども観」を展開したという結論に達せざるを得なかった。