著者
高畑 美代子
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.5, pp.75-95, 2008-12-26

Unbeaten Tracks in Japanは1878年に来日した英国の女性旅行家イザベラ・バードの日本旅行記である。初版は1880年にロンドンのジョン・マレー社から出版されて当時のベストセラーとなった。これに対して、トーマス・W・ブラキストンとホーレス・ケプロンはそれぞれの著書で、厳しくイザベラ・バードの記述を批判した。 1885年にジョン・マレー社から初版の半分以上を削除した省略新版(『日本奥地紀行』)が出たが、日本では、この省略版が作られたのは、彼らの厳しい批判に配慮したものだとされてきた。 しかし、Unbeaten Tracks in Japanの省略版の計画は、初版刊行の前からあったことを証明する手紙が、ジョン・マレー社には保管されていた。また「統計を削除して冒険と旅行の本を作る」という省略版の目的の記述も見つかった。これらから彼らの批判と省略版の関係はあったのかという疑問が生じた。 そこで、本研究では彼らの批判箇所と省略版での削除箇所の関係を精査検討した。批判の対象となった記述が「覚書き」や「一般事項」などの説明的項目に含まれていて、一括して削除されたもののほかにも、個別の信書中にあってほとんど残されているものや、数項目の事項のうちの一つを削除したものなどもあり、批判箇所への対応には一貫性がみられなかった。 また、省略版では関西旅行や居留地などの西洋人のよく行く地域や日本の近代化を記した部分が削除されたが、そのほとんどは彼らの指摘とは関係がなかった。これらのことから、省略版は、ブラキストンらの批判に配慮した結果であるとはいえないとの結論に至った。 省略の結果として、当初の目的どおりに未踏の地の冒険と旅行の本として改編されて、UnbeatenTracks in Japanの題名に即した本になったといえる。
著者
齋藤 捷一 高畑 美代子
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.37-61, 2004

英国の女性旅行家イザベラ・バードの書いた『日本奥地紀行』( Unbeaten Tracks in Japanの一部)の青森県碇ヶ関村での記述を当時の公文書やそれに近い時代に書かれた紀行等を読みながら辿っていく。彼女が越えた矢立峠を、江戸時代にそこを通り過ぎて行った人々(菅江真澄や吉田松陰等)の紀行と比較対照して、西欧文化を基盤にした視点と日本文化に基づいた視点の差異を考察した。 またバードが記したオベリスクを検証し、オベリスクと青森県大鰐町にある「石の塔」との関係について検討した。次に、彼女が青森県に入った日の大雨を公文書や当時の家日記等の文書を用いて、事実確認をした。 さらに、当時の村の宿屋や産業、公共施設などの状況を調査した。同時に、万延元年(1860)に書かれた紀行等から彼女の止宿先を後の葛原旅館と認定し、江戸時代の旅籠宿葛原から彼女の止宿した其の後までを追跡できた。また、彼女の碇ヶ関でのコミュニケーションを考察する資料を発掘し、宿の亭主(house-master)や彼女の出会った戸長(Kôchô)の人物像に迫ることができた。バードの記述から出発し、江戸末期から明治時代にかけての碇ヶ関を文書資料と多角的視点で、当時の碇ヶ関の復原を試み、再びその情報をバードに返すことにより、より深いイザベラ・バードの理解に繋げられると考えた。
著者
高畑 美代子 齋藤 捷一
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.113-138, 2004

明治11年(1878)に英国の女性旅行家イザベラ・バードは北日本を「蝦夷」へ向かって旅をしていた。蝦夷への汽船の出る青森港を目前にして、彼女は県境の碇ヶ関村で大雨に足止めされ4日間を過ごした。彼女はそこで眼にした大雨の矢立峠や洪水に見舞われた村人の様子を書いている。水が引くのを待つ間に彼女は、休暇中の子どもたちが甲虫、水車、凧、カルタをして遊ぶ姿を描いた。同時に彼らは休暇後の試験に向けてまじめに勉強する子ども達でもあった。碇ヶ関での現地調査と文献を基に、彼女の記述を辿り、青森県の学校事情を踏まえて明治の子どもを取り巻く環境と津軽の地域子ども文化の復原を試みた。 また、翻訳された『日本奥地紀行』は初版の2巻本に基づくものではなく、碇ヶ関ではカルタ遊びの部分が未訳となっているので翻訳紹介をした。これらはいずれも、研究者により1巻本の省略の要因のひとつとされてきたブラキストンの指摘にかかわる部分を含んでいる。ブラキストンが『蝦夷地の中の日本』において、バードの記述の問題点として指摘した中に、グリフィスの名前がある。彼の『明治日本体験記』の中には、バードの記述との類似が見られる。そこでグリフィスとバードの記述の比較をした。 子どもの遊びを検証する一方で、彼女の滞在した碇ヶ関の宿屋・店屋や登場する人々の特定をした。その葛原旅館は現存しないもののバードが来たことを伝聞された曾孫から話を聞くことが出来た。また戸長と宿の亭主が兄弟であったことや彼女と話を交わしたと思われる人々が揺籃期の明治の教育制度の中で重要な位置を占めていたことなど彼女の記述の裏づけとなる背景がわかった。また橋や災害の記述の正確さを示す史料も見つけることができた。 しかし子どもの遊びに関しては、特に津軽では史料の多い凧の記述などからバードは見たままを描いたのではなく、碇ヶ関という場で彼女がとても好きだという「バードの日本の子ども観」を展開したという結論に達せざるを得なかった。