- 著者
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Damrosch David
- 出版者
- 現代文芸論研究室
- 雑誌
- れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集 (ISSN:21870535)
- 巻号頁・発行日
- no.3, pp.133-155, 2011
特集 世界文学へ/世界文学から : 比較・翻訳・日本と世界The Brave World Literature Revisited : Contemporary Approaches to Literary Studies, November 12, 2011, the University of Tokyo国際シンポジウム「世界文学とは何か?」, 2011年11月12日, 東京大学私の著書『世界文学とは何か?』で中心的に扱ったのは、文学作品が元来の環境の外へ出て、翻訳され世界文学のグローバル空間に入って新しいものになるとき、作品に何が起こるのかという問題だった。しかし、ここで私が論じたいのは、異質な伝統間に見られる断絶をどう考えるべきということだ。その断絶は決して絶対的なものではない。そして今日のグローバル時代にあっては、各伝統の持つ共約不可能性こそが、新たな重要な役割を果たすということを示したい。(1)まず、東アジアとヨーロッパで、詩作がどのように捉えられてきたかを比較しよう。西洋の伝統では、文学は詩人や作家が「作る」もの(ポイエーシス)である。他方、中国や日本では、杜甫や芭蕉の詩を見ればわかるように、文学は現実に深く根ざしたもので、詩人は自分の観察と経験をありのままに書くとされた。しかし、この違いを強調しすぎるべきではない。それは本質的な差というより、程度の問題である。杜甫や芭蕉の詩もまた緻密につくり上げられた構築物という側面を持つのに対して、ワーズワースは<詩人=フィクションの作り手>とする西洋の伝統の内部で詩作しているにもかかわらず、その作品の背後には伝記的要素が秘められている。(2)17世紀から18世紀にかけて、世界の様々な場所で、商人階級が新たな力を得て自らの声を響かせはじめ、19世紀に至り旧来の貴族制を決定的に退去させた。文学はこうした推移を、初期段階からいち早く取り上げた。まったく異なる文化圏が、同様の推移を経験したため、そこから生まれた作品どうしの興味深い比較が可能になる。格好の例として、フランスの劇作家モリエールの『町人貴族』(1670)と近松門左衛門の『心中天網島』(1721)を挙げよう。日仏の演劇の伝統はまったく別のものだったが、これら二人の戯曲家は勃興しつつあった新たな社会秩序への関心を共有していた。そのおかげで、二人の作品の間には興味深い一致が見いだせるのである。(3)現在多くの作家たちにとって真の「外国文学」とは、外国の同時代の文学よりも、自分の伝統における古典作品のほうではないだろうか。日本の近代作家のなかで三島由紀夫ほど、前近代の失われた過去に深い関心を持ったものもいないだろう。『豊饒の海』四部作は、前近代アジアの過去と、グローバルな近代性とを織りあわせる方策の百科事典と言ってもいい。三島は平安時代の世界を新しく蘇らせるためにプルーストを用い、さらにプルーストを脱構築するために紫式部を用いた。この二重のプロセスのおかげで、三島はどちらの伝統に対しても、深く依拠しながら、単なる模倣に終わらずに済んでいる。近代世界文学に対する三島の最大の貢献の原動力となっているのは、古代と近代、そしてアジアの伝統とヨーロッパの伝統の共約不可能性である。そして共約不可能性の比較こそは、今日の世界文学研究の新しい一面なのである。