- 著者
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岸田 秀樹
Hideki Kishida
藍野大学医療保健学部作業療法学科
Aino Univresity Faculty of Nursing and Rehabilitation Department of Occupational Therapy
- 雑誌
- 藍野学院紀要 = Bulletin of Aino Gakuin (ISSN:09186263)
- 巻号頁・発行日
- no.24, 2012-03-31
筆者は,都市における自殺予防を研究課題としたことから,近世大坂における自殺記事を扱ったことがある1)。大坂,自殺とくれば,心中・情死である。自殺記事は行政文書であったが,その簡潔な表現の背景にある情念が気にかかり,結局は近松門左衛門の脚本や井原西鶴ら当時の人々の文献を参照することになった。 しかし『曾根崎心中』の徳兵衛にせよ,『心中天の網島』の治兵衛にせよ,どこかひ弱で情けない印象がつきまとう。他方,お初にせよ,小春にせよ,本当は男を死に引きずり込んだ,恐ろしい女ではないか。警戒の対象にこそなれ,どうして当時の大坂の人々が近松心中物に喝采をおくったのか,実のところ,筆者にはよく理解できなかった。 現代の日本は自殺者数3万人を超える自殺大国である。統計には表れないが、そこには心中絡みの事件が多数含まれているはずである。本日(09.11.24)の朝刊にも加古川の一家心中,住之江での拳銃による中年男女の心中の記事が掲載されていた。心中は他殺と自殺のアマルガムであり,今も昔も犯罪との関係を無視できない。 『心中への招待状・華麗なる恋愛死の世界』2)の著者,小林氏は心中が他殺を含意することを承知している。それでもなお,曾根崎心中を「心中」の原型に押上げたインパクトと文化的エネルギーを見誤ってはならない,と主張する。氏によると,曾根崎心中は千載一遇の恋愛死であり,恋愛は近代的自我を欠いては成立しない相互行為なのである。 上記観点から見れば,一家心中や無理心中,果てはネット心中など「心中」に値しない。罪のない子供や嫌がる女を殺しても「心中」なら仕方ない,という優柔不断な世論が犠牲者を増やしてきたのであり,まして赤の他人どうしのネット心中がなぜ「心中」なのか。殺人行為には社会的に毅然とした非難を以って臨むべきである,と小林氏は主張する。 こうして堕落に堕落を重ねる心中文化が女子供の犠牲者を増産しているとすれば,そうした趨勢に対抗するには心中の核心たる恋愛死を明らかにし,示すことが不可欠である。本物を示さなければ,紛い物がはびこる。小林氏の今回の著作は,自殺予防に対する挑発的なタイトルにもかかわらず,自殺予防の援軍と見ることができる。 以下では小林氏の歴史社会学的分析を追い,大坂の宗教的側面,デュルケームの自殺促進要因について補足し,自殺予防に関わる公的介入による心中の変質について考察したい。