著者
Ingebretsen Edward J.
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-55, 2003-03-31

アメリカン・ゴシックと呼ばれる表現様式の存在について,特に恐怖が美学(Grumenberg 1997),政治的な演説(Goddu 1997),そして行き過ぎた大衆文化(Edmundson 1997)をも利用するやり方に関して,活発な意見が出されてきた。ゴシック様式は,そこによく登場する吸血鬼のように完全に死んでいない異常な生物のやり方にならって,その眼前にある全てのものを食い尽くしてしまう。例えば商業目あてのゴシックでは,フレディ・クリューガーやハンニバル・レクターといった恐怖界の有名人を集中的に売りこむやり方がはびこっているように見えるし,恐怖や暴力に関するレトリックは音楽から政治演説に至るまであらゆる所で問題視されることもなく用いられている。こうした営利目的のゴシックはまた,デイヴィッド・プンター(1980)がゴシックの「差し迫った政治性」と呼ぶ説を裏付けている。というのも,恐怖をあおる話し方がB級映画からアメリカの政治の場そして日々のメディアやニュース作りの中に入り込んできたからである,ティモシー・マクヴェイや,より最近ではオサマ・ビン・ラディンの例に見られるように,いったん世間が彼らに怪物の烙印を押してしまうと,あとの法的手続はみな,怪物だからやつらは生きるに値しないというすでに下された判決をただ追認するものにすぎなくなってしまう。「怪物」という言葉には注意するべきだ。それはわかりやすく認識論的な明瞭さを持った言葉であると考えられているが,実際のところどんなメッセージを伝えようとしているのだろうか。その言葉はいろいろなものを指していて複雑であり,一見した所よりもずっと広い幅を持つこの「怪物]という分類は,現代の政治においてどのような意味を持っているのだろうか。本論文は,「怪物」の社会言語学的伝統を研究するものである。怪物のレトリックは古代以来,イデオロギー的な機能を果たしてきた。それらが達成しようとする権力や報復は常に,宗教,国家,文明の三者から成る権威によって保護されている。遺伝上の偶発的変異として生まれた怪物を社会的な寓話として読めば,それは人間の都市に門を据え,その通行を規制するものである。社会が自らを統治するために組み合わせる風習や慣行のレトリックにおいて,怪物は,イデオロギーが必要とするものが目に見える負の形をとって現われたものであり,烙印を押され,共同体が自意識を持つために必要な拒絶されるべきものとして立ちあらわれる。この言葉をめぐる議論の歴史を概観することで分かってくることはマクヴェイやビン・ラディンを怪物であるとするなら,皮肉にも,その言葉がもともと意味するものとは遠くかけ離れた意味においてであるということである。