著者
Matsuo Kazuyuki
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
no.14, pp.19-42, 1996

20世紀初頭に、アメリカの「影響力」は中国大陸に広がりつつあったが、それはかならずしもキリスト教の宣教師たちや軍人たちだけがになっていた役目ではなかった。ウッドロー・ウィルソン大統領(任期1913-21)のもとで、合衆国政府の機関として「合衆国広報委員会」なる組織が作られ、この委員会が「アメリカ」を中国や世界のさまざまな国に売り込むという努力をしていたのである。このようなことが行なわれたのは、第一次世界大戦をきっかけとしてプロパガンダという概念が登場し、ドイツを中心とする勢力と、イギリスを中心とする勢力が、広報・宣伝合戦を展開したからである。世界的規模で行なわれた宣伝合戦に立ち遅れていた当時のアメリカは、急濾編成された広報委員会をつかって「ドイツに対抗する勢力として、アメリカとイギリスが、抑圧された国の解放を目指している」とした。ところがこのような広報活動の故に、民衆の心の中には独特なアメリカのイメージが固まっていった。それはアメリカの当局者が直接意図したものというよりも、宣伝活動が言外に暗示していたアメリカ像であった。宣伝資料として、当時の大統領ウッドロー・ウィルソンの格調の高い演説が利用されたこともあり、「アメリカ」は現実の問題に対処する国というよりは、きわめて理想主義の色濃い、原理原則に固執する「正義の味方」となっていった。民衆の心の中に植え付けられた「自由と正義の国アメリカ」のイメージは、その後独自の成長を遂げて一人歩きを始め、中国では、アメリカの理想主義に影響を受けた民衆が、「抑圧」に対して立ち上がるという動きをすることになった。
著者
川田 侃
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-32, 1990-08-30

一国の世界市場での国際競争力が強くなり, その国の世界における産業的・経済的優越性が顕在化して, 経済的覇権の樹立がみられるようなときには, 当該覇権国の経済のためにも世界経済全体のためにも, それに見合った適切な政策転換が不可欠の要請となる。もし適切な政策転換がなされない場合には, 世界経済全体のバランスが崩れて, 結局のところ, 覇権国の経済も大きな痛手をこうむることになる。しかし, 歴史上そうした政策転換はとかく後手にまわって遅れがちとなり, そのため世界経済に容易ならぬ諸困難をもたらすおそれもある。そのことは, 近年とみに世界市場における国際競争力を増大させつつあるにもかかわらず, 自国市場の開放等に関してこれまで概して受動的, 消極的で, そのことのためにアメリカをはじめとして世界諸国からの批判を受けている日本の事例についてみても, 当てはまるようにみえる。いま1980年代の中葉にあって, 日本は世界のあらゆる国のなかで飛びぬけて高い貿易収支, および経常収支の黒字を抱えている。このことは直ちに欧米の経済的諸列強に対する日本の産業上, 商業上, 金融上等の経済的優越がすでに定着したことを物語るものではないとはいえ, 日本の貿易収支や経常収支の黒字は, かつて世界のどの国も経験したことのないほどの巨額のものに上っており, この状態そのものが世界経済に対する深刻な脅威となっている。そのためこの巨額の黒字を取り除くために, 市場の開放をはじめとして多くのことが日本に求められてきたが, 日本の対応は必ずしも適切かつ素早いものではなかった。確かに, 1985年9月のアメリカのレーガン政権による新通商政策の発表や五カ国蔵相会議(G5)を契機に, 日本は市場開放行動計画(85年7月)の実行繰り上げ, ドル高是正のための協調介入など, 一連の経済政策を積極的に開始したが, こうした行動は本来もっと早い時期にとられるべきであったろう。この小論は, 最近のこうした日本の経済政策の推移変転を念頭に置きながら, 一国の世界市場における国際競争力が強化され, その世界に対する産業的・経済的優越が顕在化するようなとき, それにともない要請されるべき政策転換の問題を取り上げようとするものであるが, ここではさしあたり、その歴史的先例を19世紀のイギリス, および第1次世界大戦後のアメリカに求め, かつての世界経済舞台において, こうした政策転換に関連していかなる諸問題が起きたかを, 第一の課題として取り上げたい。次に, 第2次大戦後確立されたアメリカの経済的覇権が60年代末葉以降, 次第に動揺するにしたがい, それにともなっていかなる政策転換ないしは政策調整の必要が生じ, その屈折点はどこに見出されるか等を, 第二の課題として取り上げたい。また最後に, この過程を通じてアメリカとは逆に, 漸次, 産業的・経済的優位に向けて接近の度を増しつつあった日本の諸政策についても, 一応の検討を試み, それらについての問題点を探ることを, 第三の課題として取り上げたい。
著者
巽 孝之
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-23, 1995-03-31

ポウが1841年に発表した「モルグ街の殺人」は, パリを舞台に名探偵デュパンが活躍する作品として, 推理小説史の幕を開けた。しかし今日, その舞台や主役設定, はたまた残虐なる貴婦人殺しを行なったオランウータンなどをそっくり字義的に読むことは, いささか難しい。かつてバートン・ポーリンは, 本作品中のパリがいかにアメリカ化されているかを指摘し, 他方バーナード・ローゼンタールやジョアン・ダイアンらは, 作家の南部貴族的精神や奴隷制擁護の姿勢がいかにテクストの無意識を統御してきたかを分析した。本稿は, そうした新歴史主義批評以降のポウ研究をふまえつつ, ポウにおける修辞的テクストと歴史的コンテクストとがいかに記号的相互交渉を行ない, ひいては, ポウにおける歴史が作品の背景に埋没するどころかいかに作品内部の盲点を積極的に構造化してきたかを解明する。その前提としては, 殺人オランウータンを南部黒人の一表象と見る視点が選び取られる。だが, 南部的女性崇拝が黒人差別転じて黒人恐怖と密着していたのは当然としても, そうした恐怖の本質をさぐるとなれば, 人種意識を超えて, さらに南部における所有権の歴史を一瞥しなければならない。黒人に代表される「闇の力」への恐怖を形成したのは, 奴隷叛乱を懸念する恐怖のみならず経済革命としての農地再分配(アグレリアニズム)が貴族的主体を脅かし所有権を侵害することに対する恐怖だった。そしてデュパンは, 誰よりも南部に関するアレゴリーを読み解く技術に秀でた南部貴族として性格造型された。
著者
井口 治夫
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.57-93, 2003-03-31

本稿は,太平洋戦争末期から連合国による対日占領初期における,ダグラス・マッカーサー将軍の信任が厚いとされた軍人ボナー・フェラーズの考えと行動を考察の対象としている。フェラーズは,1944年から1946年までマッカーサーの副官を務め,また,終戦までマッカーサーのもとで推進された対日心理作戦の中心人物であった。本稿で紹介されている,フェラーズの天皇・天皇制と日米戦争終結に対する見解,フェラーズが1946年夏に退官を決意するに至った理由と状況,そして最も重要である終戦後フェラーズが滞日中に行ったことなど,フェラーズに関する詳細の多くは,いまだ紹介されたことのないものである。終戦前後の日米関係におけるフェラーズの多大な貢献は,マッカーサーが指揮する軍隊内で,天皇制を利用することにより,終戦,武装解除,占領改革を達成するという見解を積極的に後押ししていったところにあったといえよう。フェラーズは,滞日時代に日本が降伏を決断するに至った経緯に関する歴史資料や証言を集め,これらをもとに1946年の最初の三ヵ月間で1944年から1945年にかけて彼が推進した対日心理作戦を総括する報告書を書き上げたが,この執筆作業を通じて彼は,ドイツの降伏から広島へ最初の原爆が投下されるまでの期間,日米両国は,太平洋戦争を早期に終結させる機会をなぜ有効利用できなかったのかという疑問に関心を強めていったのであった。
著者
三輪 公忠
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-12, 1991-03-31

日ソ間の交渉をみる限り, 北方領土問題にはあいかわらず出口が見えないようである。本稿はその出口を探しだすだけでなく, 北方領土問題を米ソの協力を得て日本が積極的に新しい安全保障機構の構築のために貢献する出発点とすることを提唱する。本稿は北方領土の運命は1945年12月のモスコー外相会議における米国務長官 James Byrnes とソ連外相 Molotov との一種の取引によって定まったという一つの秘められた事実を発掘する。大西洋憲章に鑑み, 領土の併合をいっさいしないと決めたローズベルト大統領の理念にもかかわらず, アメリカの軍部, 特に海軍は, 戦争中に軍事占領したミクロネシアをその戦略的重要さのゆえに手放すつもりはなかった。ローズベルトの死後, トルーマン大統領の下で, 国務長官となったバーンズは二律背反の主張と立場を見事な妥協外交で両立させることに成功した。すなわち日本の北方領土はソ連領とし, 代わりにアメリカは日本の旧連盟委任統治領(ミクロネシア諸島)をアメリカの国連戦略信託統治領として軍事的にも自由に使用できることとしたのである。このように北方領土問題にはこれまで忘れられてきた起源があるのである。してみれば米ソの協力なくして日本にとっての北方領土問題の解決の道はないのも明白である。では, この際日本はどのような解決策をとることができるか。その一つは, アメリカにとって未解決のパラウ共和国との問題とリンクすることにある。アメリカがこの共和国との信託統治領関係を解消できずにいるのは, この国の非核三原則憲法のためである。日本はこのアメリカの問題解決に, 北太平洋の非核地帯化への主導的立場をうちだすことで大きく貢献することができる。すなわち, ソ連の武器弾薬を含み, 北方領土上にあるいっさいの軍事施設(それは東シベリアの他地方からそのために運びこまれたものでもよい)を普通の社会施設などと共に買いとるというかたち(前例は沖縄返還のときあった)で, ソ連の経済的ニーズに応えつつ, そのように獲得したものは, たとえば日米加ソの国際監視団の監視のもとで一定期限内に廃棄処分にする。そして同時進行的に, 1986年に発効した南太平洋非核地帯(SPNFZ)に連続する非核地帯を構築する。こうして, 日本は悲惨な戦争体験から学んだ日本国憲法の平和主義と非核三原則をポスト冷戦下の新秩序の形成に積極的に生かしてゆくことができる。それはすでに欧州安保協力会議(CSCE)のメンバーである米ソ加に日本が加わる一つの実際的な方向性であり, やがて, 中国そして統合されるであろう朝鮮半島の国の参加をみすえた未来図である
著者
ラブソン スティーブ
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-17, 1992-11-30

アメリカ人の多くは, 1945年8月14日の「対日戦勝記念日("Victory over Japan Day"=V-J Day)」と聞けば, 長く破壊的な戦争が終わったことへの安堵の気持ち, そして目標が達成されたことへの満足感を連想するだろう。大統領ハリー・S・トルーマンが1946年にその名前を単に「勝利の日(Victory Day)」と短くした。その後, いくつかの州がこの「勝利の日」を法的な祝日とすることを宣言し, その中には1948年に同様の宣言を出したロード・アイランド州も含まれている。しかしながら, 1975年までにはこれらの州のすべてがこの祝日を廃止してしまった。それでも, ロード。アイランドのみはその唯一の例外であった。ロード・アイランドでは, 「勝利の日」は未だに広く"V-J Day"と呼ばれており, それは新聞や"V-J Day"記念特売のための宣伝などにさえも使われている。ロード・アイランドに住む日本人, 日系アメリカ人らは, 祝日の名前が法制化されていること, 及び名前が"V-J Day"と短く呼びやすくなっていることによってこの古く不名誉な呼び方が引き続き使われていることが促されているのであり, それによって彼らが戦時中の攻撃や虐殺に関して謂のない辱めを受け, 更に日本人, 他のアジア人, アジア系アメリカ人に対する中傷, 暴力の元となっている, と主張している。そのような事件は実際には少数であるにせよ, ここ数年増加する傾向を見せている。おそらくは, 日米間貿易での緊張の高まり, さらにはそれがメディアのセンセーショナリズム, 両国の政治家が感情的な愛国論を打ち上げていることによって不必要に煽られていることがその一因であろう。この祝日法を改定し名前を変えようと試みた法案が四つ州議会に提出されたものの, 州政府に多大な影響力を持つ退役軍人組合からの執拗な圧力によってその通過は阻まれてしまった。第二次世界大戦中にはロード・アイランド出身者から多数の死傷者が出たため, 祝日の名前を変えることは軍人の犠牲を軽んじることになり, さらには, 「歴史の見直し」を主張している日本の右翼集団を助長させてしまっていると, 彼らは主張している。しかし, 多くの退役軍人は改定を支持している。そして, 反核団体, 在米日本人, アジア系アメリカ人, ロード・アイランド州議会黒人幹部会なども同様の態度をとっている。彼らは, 日本の政治家が数度にわたりアフリカ系アメリカ人に対して偏見に満ちた発言をしたことに対しては怒りを隠さないにせよ, その祝日の現在の名前は差別的であるということにおいては一致を見ているのである。
著者
高柳 俊一
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.53-77, 1991-03-31

本論文はポール・ケネディーの『大国の興亡』, アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(以上は日本語訳で広く知られている), E・D・ハーシュの『文化的読解力』(Cultural Literacy)を1987〜88年の自国の影響力衰退についての米国内の反応として捉え, そのいくつかの側面を指摘したものである。ケネディーは他の彼の著書においても記述のパラダイムとして, 「興亡」を使っているが, それはアウグスティヌス, ギボン, シュペングラーが用いたものであり, トインビーが使った「挑戦と対応」は「興亡」の根拠を捉えるためのパラダイムであると思われる。この背景には世界史の中心となったヨーロッパ文明がローマ帝国の後継者として次々に登場し, 米国は西ローマ帝国, ソ連は東ローマ帝国の後継者として世界を分割し, 現在その枠組が崩壊しつつあるという事実がある。以上の三つの書物が出版された時, ソ連の東欧帝国の崩壊はまだはじまっていなかった。それがロシア正教会一千年記念と同時に顕現化したことは興味ある事実である。二つの帝国はそれぞれ拡張の限界に達し, かつてのローマ帝国と同じ様に, 時代の経緯とともに起こってくる内部からの挑戦に対応することができなくなったのである。歴史学の危機は米国で脱構築(解体)の理論による建国神話の非神話化において顕著に見られる。帝国とは他民族を含むものでありながら, 一つの共通言語・文化をもち, その優位性への絶対的信頼の上に平和と秩序を維持する政治・経済・文明形態である。かつてのローマ帝国の衰退も多数民族の民族主義と支配民族の優位性についての懐疑主義によって推進された。ブルームの著書はいわゆる世俗的ヒューマニズムの立場から, 70年代の学生紛争の体験をもとにしながら, 世界における「アメリカ的現在」の回復を求めたものであり, ハーシュの著書も同様のテーマを, 「文化的理解力」の社会における目立った衰退とそれにに対する懐疑がいかに経済的な衰退の原因になっているかの観点から論じている。本論文は, 以上のような議論自体を「興亡」のテーマ以上に, 「挑戦と応答」をめぐる議論として捉え, 植民地時代, 建国時代からのアメリカ思想史と1950年代中葉以後の大学教育をめぐる議論のコンテクストのなかに位置づけ, あわせて特にブルームの著書が巻き起し, 今日まで続けられている論争を加味しながら, 取り扱ったものである。
著者
Firkola Peter
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-17, 1997-03-31

1980年代半ばに生じた経済状況の変化により、カナダ企業は競争力維持のために内部組織の変革を余儀なくされた。この変革の中で、人員削減が行われ、企業内における組織と従業員の関係も大きく変化した。本稿は、カナダの大企業をめぐるこの新しい状況が、従来カナダにおいて見られたキャリア・ディベロップメント(career development)に与えた影響について論じるものである。まず、career、career development、career path、などの用語について説明した後、従来のカナダ社会におけるキャリア・ディベロップメントに対する考え方を検討する。次に、経済状況の変化によりカナダ企業において、キャリア・ディベロップメントがどのように変わったかを調べるために行われた研究調査について報告する。面接調査は、1993年の夏に、カナダの大企業8社を対象に行われたものである。面接調査の結果、カナダ企業におけるキャリア・ディベロップメントについて以下の3点が明らかになった。1、従業員自身が自分のキャリアに対して責任をもつようになったこと。2、新しいパラダイムをスムーズに導入するため障害が生じたこと。3、キャリア・ディベロップメント・プログラム開発を先導しているのは、ハイテク企業であること。最後に、1990年代後半のカナダ企業におけるキャリア・ディベロップメントの動向について論じる。
著者
金山 智子
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.83-113, 2004-03-31

本論文は公的扶助受給者の報道におけるメディアの役割を、メディアの儀礼的視点から考察したものである。本研究では、ニクソンからクリントン政権までの27年間にわたって米国の代表的な雑誌で報道された公的扶助関連記事について内容分析を行った。その結果、これらの報道は定期的な儀礼としての機能を帯びていることが認められ、米国に存在してきた「貧困は罪深い」という共通の信念を読者が確認する機会となっていたことが示唆された。このような信念は17世紀のイギリス社会で発生し、その伝統を引き継ぐ米国社会にも受け継がれてきたことは明らかであり、また公的扶助の受益者についての報道を読者が、習慣的かつ、儀礼的に消費する際に影響を与えていたと理解できる。公的扶助の受益者たちと社会への貢献者としての納税者という二つの異なる立場は、報道を通じて、両者間が調和されるよりは、むしろ納税者の公的扶助受給者に対する敵意を強調することになった。米国では植民地時代同様、近代においても貧困者に対する「辱め」や「卑しさ」の観念が、メディアを通じた儀礼によって継続的に示されてきたのである。
著者
菅 英輝
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-74, 1989-10-30

レーガン政権時代にアメリカの軍備拡大がおこなわれたが, それは産軍複合勢力が意図的におしすすめた政策であった。政策を実行に移したのは, レーガン大統領のもとで高級官僚の地位にあった国防産業のにない手たちであった。実際に軍備拡大にあたっての調整をおこなったのは Committee on the Present Danger であったが, その努力の結果として合衆国に経済的利益があり安全保障上有利になるとされた。しかしながら, 軍備拡大の結果経済的利益があがったのは, 国防関連産業の集中する特定の限られた州においてである。長期的には, 国内経済全体としてはむしろ害が多く, たとえば, 財政赤字の拡大にみられるような経済運営の失敗, 経済活動の無駄, 技術開発の軍事化やゆがみ, さらには安全保障面での形勢の弱体化などが生じた。さらに, アメリカの軍拡は全世界の武器購入国のあいだに紛争を誘発させたり, 紛争そのものを長びかせることにつながった。日本自体もアメリカの軍備増強の影響下におかれている。最近のFSXをめぐる論議やココム論争は, その典型的な例であろう。
著者
Ingebretsen Edward J.
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-55, 2003-03-31

アメリカン・ゴシックと呼ばれる表現様式の存在について,特に恐怖が美学(Grumenberg 1997),政治的な演説(Goddu 1997),そして行き過ぎた大衆文化(Edmundson 1997)をも利用するやり方に関して,活発な意見が出されてきた。ゴシック様式は,そこによく登場する吸血鬼のように完全に死んでいない異常な生物のやり方にならって,その眼前にある全てのものを食い尽くしてしまう。例えば商業目あてのゴシックでは,フレディ・クリューガーやハンニバル・レクターといった恐怖界の有名人を集中的に売りこむやり方がはびこっているように見えるし,恐怖や暴力に関するレトリックは音楽から政治演説に至るまであらゆる所で問題視されることもなく用いられている。こうした営利目的のゴシックはまた,デイヴィッド・プンター(1980)がゴシックの「差し迫った政治性」と呼ぶ説を裏付けている。というのも,恐怖をあおる話し方がB級映画からアメリカの政治の場そして日々のメディアやニュース作りの中に入り込んできたからである,ティモシー・マクヴェイや,より最近ではオサマ・ビン・ラディンの例に見られるように,いったん世間が彼らに怪物の烙印を押してしまうと,あとの法的手続はみな,怪物だからやつらは生きるに値しないというすでに下された判決をただ追認するものにすぎなくなってしまう。「怪物」という言葉には注意するべきだ。それはわかりやすく認識論的な明瞭さを持った言葉であると考えられているが,実際のところどんなメッセージを伝えようとしているのだろうか。その言葉はいろいろなものを指していて複雑であり,一見した所よりもずっと広い幅を持つこの「怪物]という分類は,現代の政治においてどのような意味を持っているのだろうか。本論文は,「怪物」の社会言語学的伝統を研究するものである。怪物のレトリックは古代以来,イデオロギー的な機能を果たしてきた。それらが達成しようとする権力や報復は常に,宗教,国家,文明の三者から成る権威によって保護されている。遺伝上の偶発的変異として生まれた怪物を社会的な寓話として読めば,それは人間の都市に門を据え,その通行を規制するものである。社会が自らを統治するために組み合わせる風習や慣行のレトリックにおいて,怪物は,イデオロギーが必要とするものが目に見える負の形をとって現われたものであり,烙印を押され,共同体が自意識を持つために必要な拒絶されるべきものとして立ちあらわれる。この言葉をめぐる議論の歴史を概観することで分かってくることはマクヴェイやビン・ラディンを怪物であるとするなら,皮肉にも,その言葉がもともと意味するものとは遠くかけ離れた意味においてであるということである。
著者
井口 治夫
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.75-105, 2007

エルバート・トーマス(Elbert Thomas)は、1933年から1951年までユタ州選出の連邦上院議員(民主党)であった。当時の連邦議会には中国通のウォルター・ジャッド(Walter Judd)下院議員と元大学教員(東アジア史)のマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)下院議員(のちに上院議員、駐日大使)がいたが、当時の議会では東アジア情勢に詳しい議員はこの3人しかいなかった。彼らのうち、トーマスが最も注目された政治家であり、また、米国の東アジア政策をめぐる議論で足跡を残したのであった。トーマスは、日露戦争直後にモルモン教の宣教師として妻とともに来日し、6年ほどの滞在中に日本社会に溶け込んだのであった。トーマスとその白人の妻は日本で生まれた長女にチヨという日本人名をつけたのであった。トーマスは帰国後、上院議員になるまでの時期の大半をユタ大学で東アジア研究の教授として教鞭をとっていた。本論文は、トーマスの日米関係、太平洋戦争、対日原爆投下、対日占領に対する考えを、太平洋戦争に看護婦として従軍した娘チヨとの書簡、トーマス文書、トーマスの著書、演説そして論評を通じて考察したり、分析を行う。トーマスは、(1)日米関係が悪化していった1930年代前半軍拡競争ではなく日米文化交流の活性化を推進すべきであると提唱したり、(2)対日原爆投下直後に原爆使用の意味を歴史的洞察力に富んだ論文で考察している。こうしたトーマスの考えや行動は、人道主義的であり、また、国際連合と国際法に立脚した世界秩序を支持するリベラルな国際主義を反映していた。彼の日本に対する見方は、彼の滞日経験に基づいた日本社会と文化に対する親近感と、典型的なウィルソン主義的使命感(日本を含めた全世界に米国が提唱する価値と規範を受容させていく考え)が並存していた。トーマスは、その突然の死の直前、40年ぶりに訪日しており、そのさい、靖国神社を参拝していた。
著者
佐藤 紘彰
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.71-89, 1993-04-30

In appealing to his lover or trying to "facilitate the study of the Japanese text, " Arthur Waley translated the 5-7-5-7-7-syllable tanka in five lines, often padding his translations in the manner of Robert Brower and Earl Miner. But in translating The Tale of Genji and Murasaki's Diary he incorporated most of the tanka into the prose, so that an inadvertant reader may never know that Genji contains nearly 800 tanka. Reading Waley's tanka translations incorporated into the prose text, one wonders if it may not be more natural to translate this verse form in one line. After all, unlike most English translators of tanka who believe with Waley that "the tanka is a poem of five lines, " most Japanese tanka writers, Tawara Machi of Sarada Kinenbi fame included, regard it as a "one-line poem." If one function of translation is to reproduce the original, shouldn't the attempt to do so include the line formation as well? Or if the breakup of the five syllabic units is to be stressed, why not go a step further and stress the syllabic count as well? What about the flow of the original? This paper looks at these questions by citing translations of Waley, Brower and Miner, Seidensticker, Bowring, Heinrich, Shinoda and Goldstein, Watson, LaFleur, Rodd and Hen-kenius, McCullough, and Carpenter against Sato's own monolinear translations.