著者
桃井 治郎 Jiro MOMOI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.176-194, 2022-03-31

19世紀初頭のフサイン朝チュニジアは、1830年のフランス軍によるアルジェ侵攻とチュニジアの経済危機によって困難の時代を迎えていた。 1824年に即位したフサイン2世ベイは、フランス軍のアルジェ侵攻に対して、フランスからアルジェを支援しないように求められる。そのため、ベイは、アルジェとフランスの仲介のために来訪したオスマン帝国特使のチュニス上陸を拒否した。また、フランスのクローゼル将軍からの提案により、アルジェリア西部のオランに出兵し、フサイン朝による統治を目指したが、現地民の反発で計画は挫折し、撤退を余儀なくされる。その後、フサイン2世ベイは、オスマン帝国のスルタンに対して一連の行動を弁明するために特使を派遣する。特使は、オランへの出兵はフランスとの衝突を避け、イスラーム教徒の血が流れることを避けるための行動であったと説明し、理解を得て帰国した。 一方、19世紀初頭からフサイン朝の宮廷にはヨーロッパからの奢侈品が流入し、ヨーロッパ商人への支払いが急増していた。その出費を支えていたのが、チュニジアで生産されるオリーブ油取引からの利益であった。しかし、1828年以降、オリーブは深刻な不作に見舞われる。契約量のオリーブ油をフランス商人に引き渡せなかったため、ベイはフランス総領事レセップスを通して交渉を行い、自ら個人資産を拠出するなどしてフランス商人への返金にあたった。フランス軍のアルジェ侵攻直後の1830年8月には、フランスに求められるままに、フランス商人のチュニジア内での活動を自由化するなどの内容の条約を締結する。 1824―35年のフサイン2世ベイの統治期は、フランス軍のアルジェ侵攻とチュニジアの経済危機を契機として、チュニジアにおけるフランスの政治的・経済的影響力が強まっていく大きな転換期であったといえよう。
著者
桃井 治郎 Jiro MOMOI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.96-114, 2021-03-31

北アフリカのオスマン帝国アルジェ領・チュニス領・トリポリ領を拠点とする海賊は、15 世紀末以降3 世紀にわたって地中海に出没した。北アフリカ海賊の歴史は、15 世紀末から16 世紀の誕生期、17 世紀から18 世紀の存続期、19 世紀初頭の終焉期に分けることができる。誕生期は、オスマン帝国とスペイン帝国が地中海の覇権を争い、それに伴って海賊も活発化した時期である。存続期は、北アフリカ諸領がヨーロッパ諸国と和平条約を結び、海賊の活動が沈静化した時期である。終焉期は、ヨーロッパにおけるウィーン体制下の協調外交によって北アフリカ海賊の廃絶が決議され、北アフリカ諸領に軍事的圧力が加えられた結果、海賊が廃絶していく時期である。 一方、同時期のヨーロッパでは、イマニュエル・ウォーラーステインのいう近代世界システムが生成していた。世界システム論における「長期の16 世紀」および「長期の17 世紀」には、北アフリカ諸領は近代世界システムの外延部にあったが、近代世界システムが再拡張期を迎える「長期の18 世紀」の後半になると、北アフリカ地域は政治的にも経済的にも近代世界システムに組み込まれ、周辺化していく。 世界システム論の観点から見れば、15 世紀末から19 世紀初頭における北アフリカ海賊とは、北アフリカ諸領が近代世界システムの外延部に位置していた時期に、近代世界システムとその外部にある世界システム間の争いの一形態として現れた存在であった。また、北アフリカ海賊の存在は、15 世紀末から16 世紀にかけてスペインによる北アフリカ征服を妨げ、結果的に北アフリカ地域が近代世界システムに組み込まれるのを遅らせる役割を果たした。ただし、19 世紀初頭には、北アフリカ海賊は資本主義的世界経済の活動を阻害する存在として廃絶の対象となる。そして、近代世界システム拡張の障壁となっていた海賊の廃絶後、北アフリカ地域は近代世界システムに組み込まれ、周辺化していくのである。