著者
松本 隆 マツモト タカシ Takashi MATSUMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = Bulletin of Seisen University Research Institute for Cultural Science (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.37, pp.110-95, 2016

助詞の「は」と「が」の中には、どちらを選んでも文意に大差がなく、そこから受ける印象だけが異なるものがある。小説をはじめとする文芸作品では、こうした反転可能な「は/が」を、表現技法のひとつとして使い分け、微妙なニュアンス差を伝える事例が観察される。「は/が」の働きの違いを、そこから思い描かれる心象の差異に関連づけて解釈する見方が提案されている。本稿では、「は」を主観的な「寄り」の心象、「が」を客観的な「引き」の心象に対応させて、小説などの情景描写文における「は/が」の働きを検討した。その結果、「は/が」が、作品全体の構成と展開、細部における心象の構図調整、読者の視線誘導や心理操作などの機能を果たしていることを認めた。 Although the Japanese particles WA and GA differ in meaning and usage, occasionally they can convey almost the same meaning, with the only difference being the impression left by the sentence. We can observe many examples in which the rhetorical use of the interchangeable WA / GA particles conveys subtle differences in the meaning of expressions used in literary works such as novels. Some researchers have proposed an explanation of the differences in function between WA and GA, in relation to the imaginary pictures drawn in readers' minds provoked by the two particles. This paper hypothesized that WA corresponds to a subjective close view and GA to an objective distant view, and examined depictive descriptions which contain WA/GA in literary works such as novels. The conclusion was that WA and GA are concerned with the construction and development of the entire story, the detailed compositional adjustment of the story's imagery, the direction of the reader's gaze, and the psychology of the reader.
著者
愛甲 雄一 Yuichi AIKO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.147-164, 2020-03-31

一般に国際政治学の中で多数派支配を意味する共和政は、平和と結び付けて語られることが多い。そうした語りを行なった人物の代表的事例がカントであるが、しかし『法の精神』の著者として知られるモンテスキューも、実は同様の指摘を行なっている。ただ国際政治学の中では長い間、このモンテスキューの議論はほとんど取り上げられないままに放置されてきた。そこで本稿では、この研究上の空白を埋めることを通じて、共和政の対外的関係というテーマを今後再考するための足掛かりを得ることを目指したい。 実はモンテスキューの主張は、カントのように、共和政それ自体を平和的と見なすものではない。この政体と対外的な好戦性とは本来矛盾する、というのが彼の見解であり、その理由として、共和政国家が論理的に小国でなくてはならないことが挙げられている。モンテスキューによれば、共和政が持続するためには、私益よりも公益を優先する「徳」が人びとの間に備わっていなければならない。だが徳の維持は大国であるほど難しく、ゆえに共和政は、領土拡大を旨とする好戦的姿勢と両立させることが困難である。こうして対外的な平和の追求が、共和政の維持にとっての必要条件になる。 ところが共和政の歴史は、この政体が好戦的になり得ることを示してきた。実際、マキャヴェリを始めとするモンテスキュー以前の共和主義者たちは、主にローマの事例から、共和政を好戦的あるいは膨張主義的な政体と位置付けていたのである。しかしモンテスキューからすれば、ローマの帝国化は「歴史の偶然」に過ぎず、それと共和政との間に必然的な関係は存在しない。ただ共和政が大国化し得ることは否定できない歴史上の事実であり、だからこそそれを防ぐために、幾つかの策を講じる必要がある。その防止策として彼が提示したのが、以下に挙げる3つの方策であった。すなわち、小国である共和国が連合してその防衛力を拡大させる「連合共和国」を結成すること、専制への防波堤としての自由な制限政体を保持すること、そして「商業の精神」の普及によって平等な社会状態を維持すること、の以上3点である。 今日、行き詰まりを見せる現代社会への処方箋として、「共和主義」の再興を唱える向きは少なくない。だが、共和政の対外的関係というテーマに関して言えば、この点をめぐる現代の共和主義者たちの関心は相対的に希薄なままに留まっている。本稿が示すモンテスキューの国際政治理論は、この文脈において、重要な示唆や知見を与えるものとなるのではあるまいか。

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著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.1-22, 2020-03-31

漢字には「楷書体」「行書体」「草書体」の三つの「書体」がある。日本においては、「楷書体」をくずしたものが「行書体」で、「行書体」をくずしたものが「草書体」ととらえることが多い。しかし「くずす」ということは明確に定義されていない。本稿では、漢字の「草書体」をさらにくずしたものが「平仮名」であると位置付けた。そして、「楷書体」「行書体」「草書体」「平仮名」を、3・2・1・0と数値化して、これらの「書体」を説明することを提案した。これまでの研究においては、「書体」について説明することばがなかったので、この提案は有効なものと考える。In Japanese, there are three terms used to refer to the different styles of writing kanji characters: kaishotai (楷書体), gyōshotai (行書体), and sōsyotai (草書体). "Standard," or "noncursive" kaishotai characters that have been "broken" (くずした) are referred to as gyōshotai, and gyōshotai characters that have been futher "broken" are referred to as sōsyotai. However, the matter of "breaking" (くずす) kanji characters has not yet been adequately clarified. Therefore, this paper uses the term hiragana (平仮名) to refer to sōsyotai characters that have been futher "broken." it assigns the numbers 3, 2, 1, 0, respectively, to characters that are written in the kaishotai, gyōshotai, sōsyotai, and hiragana styles. Since in previous studies there has been no word to adequately clarify the notion of shotai (書体, handwiriting style) this proposal is considered to be valid.
著者
長田 直子 Naoko OSADA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.23-46, 2022-03-31

本稿は、近世後期の土浦の薬種商色川家の記録を手掛かりに、地方の薬種商がどのような薬種を仕入れ活動したか、又、政治・社会状況が大きく揺れ動いていたこの時期に薬種商がどのように行動したのか等、その実態の一端を明らかにしたものである。 江戸時代は、日本の医学・医療が発達した時代である。日本で独自化した東洋医学「漢方医学」に複数の流派が誕生する一方、十八世紀半ば以降は「蘭方医学」も発達し、両医学が共存した。そして、都市のみならず、地方の農村部でも医学塾などで修行した医師が活動していた。医師が医療活動を行う為には薬種が必要であり、都市・農村共に薬種商がいたはずである。しかし、個々レベルの薬種商に関する具体的な研究は、史料的問題によりほとんどなく、その実態は不明なことが多い。 色川家は、土浦城下(現、茨城県土浦市)で十八世紀中頃から幕末期にかけて薬種商を営んだ家である。色川家九代目の三中は、地域の学者として有名であるが、家業の薬種商としても活躍し、その弟美年ともに家業を成長させていった。色川家には、多様かつ膨大な文書がある。三中・美年が書き綴った日記「家事志」「家事記」を始め、取り扱い薬種の帳面等から、当時の薬種商の実態についても窺える。本稿では、色川家が複数の江戸の薬種商から薬種を仕入れ、江戸の大店薬種商と同等の多様な漢方薬・蘭方薬などを扱っていたことを分析、明らかにした。 又、本稿では、天保改革期、幕末期の異国船来航時の二例から、時の政治・社会状況に大きく影響されてゆく薬種商の姿も示した。そこからは、天保改革時に藩による物価引下げ政策の中で薬種商達が薬種値段引下に対応してゆく面、異国船渡来の影響による薬種の不足と薬種高騰・下落の中で薬種確保に奔走する商人の姿が見られた。 近世後期から幕末期にかけての地域の薬種商は、医師の医療を支え医療の一端を担う重要な立場であるとともに、時の政治・社会状況に左右される商人という、両面を持ち合わせる存在だったのである。
著者
西住 祐亮 Yusuke NISHIZUMI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.121-136, 2022-03-31

海外における性的少数者の人権促進は、これまでアメリカ外交の主要争点ではなかった。しかし2010年代初頭から、こうした傾向に変化が生まれている。変化の主な理由は、国内状況の変容である。 性的少数者の人権問題は、国内政治レベルにおいては、これまでも党派対立の主要争点であった。民主党は、性的少数者の権利向上を唱えて続け、しかもこの問題に対する熱意を今なお強めている。対する共和党は、キリスト教的価値観や伝統的な性道徳を重視する立場で、民主党の打ち出す政策に異を唱えてきた。同性婚合法化の問題をはじめ、両党は様々な争点で対立を繰り広げた。 性的少数者の人権問題をめぐる民主党と共和党の対立は現在も続いている。しかし他方で、一定の変化も観察できる。2015年の画期的な連邦最高裁判決を受け、同性婚は50州全てで合法化された。また、2021年のギャラップ社の調査によると、共和党支持者の中でも、同性婚を支持する声が半数に及んだ。 こうした国内状況の変化を背景に、民主党は、外交の中でも、性的少数者の人権問題を精力的に取り上げるようになっている。オバマ大統領は、この問題を外交政策上の優先課題に引き上げ、関連省庁に対策を求める大統領覚書を発出した。こうした政策の多くは、次のトランプ政権によって破棄されたが、バイデン政権の発足で復活・強化されて、現在に至っている。 さらに連邦議会においては、民主党議員が、性的少数者の権利を侵害した海外の主体に制裁を課すことを規定する法案を提出したり、下院外交委員会が、性的少数者の人権問題に焦点を当てる公聴会を開催したりしている。共和党の側は、民主党のこうした動きに反発しているが、中には、民主党と足並みを揃えて、この問題に取り組む動きもある。 本稿では、比較的新しい現象であり、且つ先行研究も少ない、こうした「LGBT外交」の現状や課題について整理する。
著者
松本 隆 Takashi MATSUMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.237-254, 2020-03-31

童話「ごんぎつね」の草稿と定稿を中心に、小学校国語教科書に掲載された9種の文章と合わせて計11種類の異本を比較検討した。 視点を示唆する言語指標をもとに分析したところ、(1)草稿と(2)定稿における語りの特徴的な差異として次の3点を確認した。草稿は、(1a)キツネがヒトの村に出て「行く」物語である。(1b)語り手はキツネの側からの「見え」を一定の距離感を保って語り、(1c)伝統的な民話風の語り方がなされる。定稿は、(2a)ヒトの村にキツネが出て「来る」物語である。(2b)語りはヒトからの「見え」を基調とするが、キツネの視線に重ね合わせた語りも交える。(2c)外側と内側から状況に応じた語りを組み合わせ、現代の小説に通じる心理描写がなされる。 教科書は、(3)平成末年の5種と、(4)昭和30~40年代の4種を調査した。(3)平成の教科書は、典拠とする(2)定稿を尊重し、作品をほぼそのまま掲載している。しかし、(2)定稿の特に最終節が、(1)草稿に比べて、視点を示す言語指標に乏しく混乱が生じがちなため、一部の教科書は最終節の段落構成を再編し、読みを誘導している。(4)昭和の教科書は、原典の尊重よりも、視点の整合性や、物語展開の平明さなどの教材性を優先し、改作や圧縮などの加工を施している。
著者
桃井 治郎 Jiro MOMOI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.176-194, 2022-03-31

19世紀初頭のフサイン朝チュニジアは、1830年のフランス軍によるアルジェ侵攻とチュニジアの経済危機によって困難の時代を迎えていた。 1824年に即位したフサイン2世ベイは、フランス軍のアルジェ侵攻に対して、フランスからアルジェを支援しないように求められる。そのため、ベイは、アルジェとフランスの仲介のために来訪したオスマン帝国特使のチュニス上陸を拒否した。また、フランスのクローゼル将軍からの提案により、アルジェリア西部のオランに出兵し、フサイン朝による統治を目指したが、現地民の反発で計画は挫折し、撤退を余儀なくされる。その後、フサイン2世ベイは、オスマン帝国のスルタンに対して一連の行動を弁明するために特使を派遣する。特使は、オランへの出兵はフランスとの衝突を避け、イスラーム教徒の血が流れることを避けるための行動であったと説明し、理解を得て帰国した。 一方、19世紀初頭からフサイン朝の宮廷にはヨーロッパからの奢侈品が流入し、ヨーロッパ商人への支払いが急増していた。その出費を支えていたのが、チュニジアで生産されるオリーブ油取引からの利益であった。しかし、1828年以降、オリーブは深刻な不作に見舞われる。契約量のオリーブ油をフランス商人に引き渡せなかったため、ベイはフランス総領事レセップスを通して交渉を行い、自ら個人資産を拠出するなどしてフランス商人への返金にあたった。フランス軍のアルジェ侵攻直後の1830年8月には、フランスに求められるままに、フランス商人のチュニジア内での活動を自由化するなどの内容の条約を締結する。 1824―35年のフサイン2世ベイの統治期は、フランス軍のアルジェ侵攻とチュニジアの経済危機を契機として、チュニジアにおけるフランスの政治的・経済的影響力が強まっていく大きな転換期であったといえよう。
著者
長野 太郎 Taro NAGANO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.112-91, 2018-03-31

本稿は、占領終了から昭和末年までの戦後昭和期(1952―1989)に、日本語で公刊された旅行記、旅を主題とするエッセイ、評論などを対象として、冒険旅行をめぐる言説の傾向を検討する。右肩あがりで経済成長をとげる一方、冷戦構造による世界の明確な分断が続いていたこの時期、海外旅行は今ほど身近なものではなく、海外に旅することそのものが冒険的なこころみであった。この時期の冒険旅行をめぐる言説は、さまざまな断層のなかに散在している。まずは、戦前からの国家主義を内包した探検のエートスが、京大野外研究派を通じて探検部に引き継がれ、1960年代中頃までつづいた。そこでは学術的新発見や、未踏地制覇のような記録が重視された。1964年に海外旅行が自由化されると、一部のエリート学生以外も探検的領域に足を踏み入れることが可能となり、前者の探検とはことなるスポーツ的行為、または冒険旅行が試みられるようになった。やがて、1960年代末の学園闘争をへて、探検のエートスは決定的に存立基盤を崩される。いよいよ多くの若者が海外に出かけ、長期の私的冒険旅行、いわゆる放浪の旅をおこなうと同時に、探検部もスポーツ的冒険路線に方向転換を余儀なくされた。戦後昭和において、海外旅行の大衆化、個人化が進行していくなかで、冒険旅行をめぐる言説は、私的物語となるか、スペクタクル化する方向をたどるかのいずれかであった。
著者
藤本 猛 フジモト タケシ Takeshi FUJIMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = Bulletin of Seisen University Research Institute for Cultural Science (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.38, pp.23-46, 2017

宦官とは、去勢された男性のことを指す。ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は、中国においては紀元前の古代から存在し、彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し、一種の奴隷でもあり、また官僚でもある存在であった。そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから、しばしば政治に介入し、専横な振る舞いが見られ、その特異な身体的特徴もあって、非常に負のイメージの強い存在である。 そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると、宦官の「子」や「妻」という表現をよく目にする。言うまでも無く宦官には生殖機能がなく、子ができるはずがない。このことにつき改めて諸史料を調査し、検討を加えたところ、北宋初期に命令が出され、30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判明した。これによって基本的に北宋時代の宦官には、養子によって家が継がれ、その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える、というシステムになっており、結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたことが推測される。また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり、皇帝の声がかりなどで妻を娶り、宮中とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し、宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった。 北宋時代の後宮が、基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが、その実態については史料が限られているために全面的に解明することは不可能である。しかし零細な史料をつなぎ合わせると、歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった。その一つが李神福にはじまる一族であった。六代十二人の存在が確認できるこの一族は、初代から第六代までの歴代皇帝に仕え、特に李神福は太宗・真宗皇帝に50年以上も仕え、穏和な性格で知られた。その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死したが、その散り際の潔さ、忠誠心の厚さによって、司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった。 以上判明した北宋時代における宦官の実態は、これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異なるものであったといえるだろう。 A "eunuch" is defined as a castrated official in Chinese courts. Seen widely in the Eurasian continent, this custom had a particularly long history in China, from the ancient era before Christ. Eunuchs were either slaves or officials who served the then emperor in the inner palace. Closely connected with the emperors, they lorded it over others and intervened in national politics. The peculiar physical mark given to them emphasized their negative character to a great extent. In Northern Song primary sources, we can often find a number of expressions, such as "child" and "wife" of eunuchs. Nevertheless to say, eunuchs were deprived of any reproductive functions, and of having their own child. In my investigation into this point, particularly through examining various primary sources, I found out that an imperial order issued in the earlier Northern Song period permitted eunuchs, who were thirty years of age or over, to adopt at least one child. In doing so, I also discovered a patrimonial system in which Northern Song eunuchs largely made their adopted sons to inherit their families, and most of the sons became eunuchs to serve the next emperor. As a result, several eunuch families came into existence. While some eunuchs adopted several children, bringing up them as brothers, others were married to a woman introduced by the emperor, thereby setting up a residence outside the court. My research shows that they enjoyed a family life similar to that of ordinary bureaucrats. In the Northern Song Era, as this paper shows, the inner palace was largely maintained by a limited number of the eunuch families. However, it is impossible to elucidate the overall picture, because of the limited availability of historical documents. Still, with some relatively minor and fragmented documents, we should pay attentions to several eunuch families that served the inner palace of the Northern Song Emperors. One was a family that Li Shenfu originated. This family gave six family heads and twelve members, who served the Northern Song's emperors from the first to sixth emperors. In particular, Li Shenfu, known as mild-tempered in character, attended the Emperor Taizong and Emperor Zhenzong for fifty years in all. His grandson Li Shunju worked as a serviceman for the Emperor Shenzong and later died in battle. The scholar-officials, such as Sima Guang and Su Shi, praised him for loyalty and grace in the last moment. In conclusion, this paper argues that the realities of Northern Song Era eunuchs, as shown above, differ to a certain degree from the existing conception of Chinese eunuchs.
著者
荒尾 禎秀 Yoshihide ARAO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.23-40, 2020-03-31

近世から近代にかけて刊行された漢文資料の中には、補読のための訓点の他に本行の漢字語の左側に振仮名のようにして訳解を付したものが少なからずある。この訳解の性格については、その付された漢字語の意味内容を補足するものだとされることが多い。しかしその証明は十分ではなく、訳解の性格や機能については未だ十分には明らかにされていない。本稿は、この訳解が口語的性格を持つことを確認した。 用いた資料は、中国版本を江戸時代後期に和刻した『福恵全書』である。その漢字語の左側に付された訳解に出現する助詞「ヘ」の多くが、同じ漢字語の漢文訓読としての助詞は「ニ」であることを指摘した。これまで、近世江戸言葉では口語に於いて助詞「ヘ」の使用は格助詞「ニ」の領域を著しく浸蝕していることが明らかにされている。『福恵全書』での事実もそれと軌を一にしている。ここから両者を重ね合せると、訳解に用いている助詞は漢文訓読の伝統的な助詞の用法に対して口語によるものであると考えられる。
著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
2018-03-31

本稿では十六世紀半ば頃に編纂された「いろは分類」を採る辞書体資料である『運歩色葉集』を採りあげ、「同一と思われる見出しが異なる双つの部に掲げられる」「双掲」という現象に着目した。『運歩色葉集』は「ゐ・え・お」を部としてたてておらず、これらをそれぞれ「い・ゑ・を」部に併せ、全てで四十四部をたてる。したがって、多くの和語は「双掲」されない。「双掲」されている見出しの数は必ずしも多くはないが、拗音、長音が含まれている語がほとんどである。拗音、長音は、室町末期頃までには日本語の音韻として確立していたと考えられており、そうした音韻を含む漢語は、十六世紀半ばにおいても、仮名による「書き方」が揺れていなかった可能性がたかい。漢語は漢字で書くことが標準的であり、漢語の全形を仮名で書くことは必ずしも多くはない。したがって、漢語をどのように仮名で書くかということ自体が、和語と同様に関心事であったとは考えにくい。室町末期頃までに編まれた仮名遣書も、漢語を採りあげることは少ない。そうしたことが、仮名による漢語の書き方が揺れる一因となったことはいえようが、『運歩色葉集』における見出しの「双掲」は「二つの書き方」のどちらからでも求める見出しにたどりつけるための「工夫」といってよい。 In this paper, "Unpoirohashu", title of a dictionary which was edited around 1547, is the focus of analysis. In this dictionary, words that begin with "i" is placed in the "i grouping" just as the entry words are in "iroha" (Japanese alphabetical) order. However, around 1547 the distinction of pronunciation had already disappeared. "I" (い・ゐ) "e" (え・ゑ) "o" (お・を) were grouped in one section, and within that section there were the "i" grouping, "e" grouping, and "o" grouping. In total, there were 44 groupings. Thus, until around 1547 words written with "i" (い~) and (ゐ~) were all in the "i" grouping and those who used the dictionary did not have the problem of finding the words, as one word was not divided into two separate groupings. However, the word "youshou" was found in the "e" (えの部) grouping and "yo" (よの部) grouping. It is assumed that this happened because during those days the same words were written in two different ways "euseu" and "youseu". Such phenomenon is called "soukei". It was pointed out that "soukei" suggests that there were two different ways of writing this word. This writing of one word expressed in two ways can be regarded as "Multi-Expressive Notation System" (Tahyoukisei Hyouki System). Until now the "Multi-Expressive Notation System" was thought to have been administered in the Edo period, but this research highlighted that the previous stage of this system had already been developed before then in the 16th century.
著者
山本 勉 荻野 愛海 花澤 明優美 Tsutomu YAMAMOTO Manami OGINO Ayumi HANAZAWA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.49-84,

東京都品川区荏原一丁目一―三・専修寺本尊阿弥陀如来および両脇侍像三軀は「木造阿弥陀三尊像」の名称で品川区指定有形文化財に指定されている。二〇一七年度の品川区文化財公開に関連して、二〇一七年八月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環でこの三軀の調査を実施した。本稿では、調査の詳しい成果を報告し、あわせてこの一具の彫刻史上への正確な位置づけをおこなう。三軀は定印を結ぶ阿弥陀如来坐像に蓮華を捧げる左脇侍観音菩薩立像と合掌する勢至菩薩立像が随侍する来迎形の阿弥陀三尊像で、各像がヒノキ材の割矧ぎ造りの技法になる。阿弥陀如来像と左脇侍像のおだやかな姿は平安時代末期、十二世紀後半頃の製作とみられる。右脇侍像は少し作風が異なり、やや遅れる時期、鎌倉時代にはいってからの製作を思わせる。三尊は昭和二十二年(一九四七)に千葉県市原市の光明寺から移されたものであるが、阿弥陀如来像内の銘記によって、室町時代、永正五年(一五〇八)に上総国佐是郡池和田の正福寺の像として修理されたことが知られる。正福寺は昭和十五年に光明寺に合併された寺である。三尊の彫刻史上の問題としては、まず阿弥陀如来坐像の両脇に来迎形の両脇侍立像が随侍する形が平安時代最末期に特有のもので安元元年(一一七五)頃の製作とみられる神奈川・証菩提寺像と共通することがあげられる。また正福寺の寺名や修理関係者の名は、光明寺に現存し、やはりかつて池和田にあった東光寺本尊であったという薬師三尊像中尊の永正元年の銘記にもみえ、当時の池和田における修理や造像の活発な状況を想像することもできる。以上を総合して、この三尊が平安時代末期の時期の関東地方の造像の水準を示すものであると評価する。
著者
米谷 郁子 Ikuko KOMETANI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.218-236, 2020-03-31

シェイクスピア作品における「子供」の表象は、従来、「脆弱さ」と「早熟性」のせめぎ合う存在として考察されてきた。本論文は、そうした従来の批評を踏まえつつ、『ジョン王』におけるアーサー、私生児、そして最終幕にのみ登場するヘンリー王子という3人の登場人物の「子供」性を考察することにより、作品が、「未来」とイコールの関係を結ぶ「子供」を否定することで、同時に「歴史」や王位継承の正統性の「政治」までも疑問に付す側面に光を当てる。これにより、シェイクスピアの作品が、「子供」の表象を通じて、未来へ向かって直線的に発展していくモデルとしての「歴史」観や、それによって打ち立てられるナショナリズムへの規範的な態度や感情を批判し得ていることを、論じるものである。
著者
桃井 治郎 Jiro MOMOI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.96-114, 2021-03-31

北アフリカのオスマン帝国アルジェ領・チュニス領・トリポリ領を拠点とする海賊は、15 世紀末以降3 世紀にわたって地中海に出没した。北アフリカ海賊の歴史は、15 世紀末から16 世紀の誕生期、17 世紀から18 世紀の存続期、19 世紀初頭の終焉期に分けることができる。誕生期は、オスマン帝国とスペイン帝国が地中海の覇権を争い、それに伴って海賊も活発化した時期である。存続期は、北アフリカ諸領がヨーロッパ諸国と和平条約を結び、海賊の活動が沈静化した時期である。終焉期は、ヨーロッパにおけるウィーン体制下の協調外交によって北アフリカ海賊の廃絶が決議され、北アフリカ諸領に軍事的圧力が加えられた結果、海賊が廃絶していく時期である。 一方、同時期のヨーロッパでは、イマニュエル・ウォーラーステインのいう近代世界システムが生成していた。世界システム論における「長期の16 世紀」および「長期の17 世紀」には、北アフリカ諸領は近代世界システムの外延部にあったが、近代世界システムが再拡張期を迎える「長期の18 世紀」の後半になると、北アフリカ地域は政治的にも経済的にも近代世界システムに組み込まれ、周辺化していく。 世界システム論の観点から見れば、15 世紀末から19 世紀初頭における北アフリカ海賊とは、北アフリカ諸領が近代世界システムの外延部に位置していた時期に、近代世界システムとその外部にある世界システム間の争いの一形態として現れた存在であった。また、北アフリカ海賊の存在は、15 世紀末から16 世紀にかけてスペインによる北アフリカ征服を妨げ、結果的に北アフリカ地域が近代世界システムに組み込まれるのを遅らせる役割を果たした。ただし、19 世紀初頭には、北アフリカ海賊は資本主義的世界経済の活動を阻害する存在として廃絶の対象となる。そして、近代世界システム拡張の障壁となっていた海賊の廃絶後、北アフリカ地域は近代世界システムに組み込まれ、周辺化していくのである。
著者
BAYNE Kristofer Kristofer BAYNE
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.140-113, 2018-03-31

電車の駅は、どの都市においても、多岐にわたる言語景観の一つである。駅の周辺には、多種多様な文字や視覚的情報があり、掲示されているポスターはその一つである。本論文では、日本の駅に掲示されているマナー啓発ポスターを紹介する。マナー啓発ポスターは公共交通機関での間違ったマナーを正し、より良い行いを促すことを目的としている。本論文では、言語景観の概念を述べ、言語景観の環境としての駅の特徴を挙げる。最後には、マナー啓発ポスターの基本的な特徴、特に、駅に掲示されているマナー啓発ポスターの特徴について述べる。
著者
松本 隆 Takashi MATSUMOTO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)

明治の初めから半ばにかけて、心学道話を日本語学習用に加工した教材が相次いで出版された。この時期は、上方語の威信が失墜し、それに代わり東京語に基づく標準的な日本語が形成されていく時期と重なる。小稿は『鳩翁道話』や『心学道の話』を素材とする教材5種の調査をした。両素材は講述筆録であるため話し言葉を学ぶのに向く反面、幕末の刊行で上方語の特徴が濃厚なため新時代の標準モデルにふさわしくない面もある。これら要注意な表現に対し、各教材は注釈を加えたり、上方的でない表現を本文に選ぶなどの処置をとっている。各教材の上方語に対する姿勢は刊行時期によって異なる。早い時期の教材は、東西の言語的な差異を念頭におきつつも、上方語を依然有力な同時代語と捉えている。いっぽう刊行時期が遅くなると、東京語に重心が移りそこを基軸に、距離をおいて上方語を観察する姿勢に変わる。西から東への言語規範の推移は、表面的には刷新に見えるが、根幹においては継承であることを、教材編者ら見識ある非母語話者は心得ていた。そのため旧来の素材からでも新時代に対応しうる言語形式を吸収できたのである。