著者
川平 成雄 Kabora Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.77, pp.1-28, 2009-03

沖縄戦の最中、沖縄戦終結後も、沖縄の人たちは、生きるために必死であった。支えたのが、米軍政府の「水と食糧」であった。米軍政府にとって、米本国政府にとっても、この負担は大きく、早急に沖縄の復興を図る必要があった。最初に取り組んだのが、「慶良間列島経済実験」であった。この「実験」は、無償配給・無償労働・無通貨の「時代」に終止符を打ち、沖縄が通貨を復活させた場合、沖縄が労働力を復活させた場合、沖縄が有償配給となった場合、どう「対処」するかの「実験」であった。このような状況下で、八重山の石垣島では、独自な通貨システムを採用する。それが8日間の「曰本紙幣認印制」であった。わずか8日間の短命な「八重山共和国」の貨幣制度であったが、八重山の人みずからの思いと考えで設定したこの制度は、貨幣史上、興味深い。無償配給、無償労働が続く中で、住民の間から、そして沖縄諮詢会の間からも、貨幣経済の復活、賃金制度の発足にたいする声が湧き起こってくる。米軍政府としても、沖縄を維持する負担から早く脱却したかった。沖縄住民の声と米軍政府の施策の合意の所産が貨幣経済の復活と賃金制度の発足であった。沖縄は1972年5月15日の本土復帰までの27年間、米軍政府の統治下に置かれるが、この27年間に5回もの通貨交換を実施する。27年間に5回もの通貨交換をした例は、世界の貨幣史上、類をみない。米国政府は、これまで極東政策における中心軸を中国においていたが、内部革命による政情不安によって日本、その中でも沖縄に注目・転換する。そして米本国内の国際政策および経済情勢の変動が、5回もの通貨交換をもたらしたのであった。およそ1年間におよんだ無償配給は、46年6月5日から有償配給となる。加えて日本国内、台湾、海外からの引き揚げ者が沖縄に殺到する。引き揚げ者の実数は、敗戦後の混乱期にあって、はっきりとはつかめないが、およそ17万人ともいわれている。引き揚げ者たちにとって重要な問題は、食糧および住居の確保であった。住居は米軍のテント、米軍の廃物を利用してなんとかしのげたが、食糧の確保には難渋を極めた。沖縄の人たちは、生きるがために一日一日が必死であった。とくに沖縄の女たちは家族を守り、生活を支える要でもあり、柱でもあった。