著者
LORENZ Loretta 加島 巧
出版者
長崎外国語大学
雑誌
長崎外大論叢 (ISSN:13464981)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.323-329, 2006-11-20

中島敦(1909-1942)は、1909年(明治四十二年)に東京に生まれた。中島家は江戸時代より続く儒家の家柄で、彼も一高・東大国文科を出て、横浜高女の教師となった。喘息の発作に悩まされながらも創作活動も行った。1941年(昭和十六年)にはパラオ南洋庁の国語編修書記となり、パラオに赴任する。転地療養のつもりであったが、病状はかえって悪化した。1942年(昭和十七年)、「光と風と夢」が芥川賞候補となる。同年12月4日に喘息のため死去。『名人伝』は中島が死去した昭和12年に『文庫』12月号に発表されたものである。『烈子』に基づく物語である。趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうとして、ついに「不射之射」の極致に到達する話である。
著者
KASHIMA Takumi LORENZ Loretta
出版者
長崎外国語大学
雑誌
長崎外大論叢 (ISSN:13464981)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.201-209, 2007

明治・大正期を代表する作家の森鴎外(1862-1922)は、1862年に島根県の津和野に生まれた。家は、代々津和野藩の典医を務めていた。1881年に19歳8ヶ月で東京大学医学部を卒業し、陸軍に入る。ドイツ留学(1884-1888)後に執筆活動を始める。『舞姫』は初期の代表作で、ドイツから帰国直後に鴎外を追って来日したエリーゼ・ヴィーゲルトが素材の一つになっていることは有名である。1899年から1902年の小倉赴任後には、歴史小説の分野に進む。その転機となったのは、時代が明治から大正に代わった時の乃木希典の殉死で、鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いた。鴎外の歴史小説は、1916年の『渋江抽斎』として結実する。1916年に陸軍を退官。1919年には帝国美術院の初代院長に就任する。『高瀬舟』は1916年に書かれた。弟殺しの罪で遠島を申し渡された喜助と彼を護送する同心、羽田庄兵衛。鴎外は、二人が高瀬舟の中で交わす会話で安楽死の問題を提起している。