著者
宮川 葉子 MIYAKAWA Yoko
出版者
淑徳大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

柳沢家の文芸、特に和歌における公家と武家の文化交流の実際を探った。1.東京駒込の六義園の造園意図を知るために、柳沢文庫蔵「楽只堂年録」収載の「六義園記」及び、吉保作自筆の巻子本「六義園記」の二本を翻刻。結果、吉保は和歌の浦と玉津嶋、対岸の藤代峠一帯までもを射程距離に入れた大規模な構想で六義園を造り上げていたこと、京都の新玉津嶋社を園内に勧請していたこと、黄檗山万福寺住持悦峰和尚の提案で西湖孤山の放鶴亭を真似た東屋を妹背山に建てていたことなどが明らかになった。2.大和郡山市社会教育課保管の類題和歌集「続明題和歌集」について調査研究した。新出史料である。吉保息男吉里の編纂と思われる該本は、約7000首の和歌を春・夏・秋・冬・恋・雑に分類したかなり大部な典型的類題和歌集。霊元院と東山院を筆頭に、おもには当代の公家と武家の和歌を収録する。江戸期における公家と武家の和歌文化の接点の実際を知ることのできる貴重な資料である。当該研究期間内には、「詠者目録」「題名目録」「春」「夏」「秋」「冬」の翻刻を終えたので、引き続き「恋」「雑」の翻刻及び全貌の調査研究を行いたい。3.吉保側室正親町町子の出自は不明であったが、父は正親町公通、母は水無瀬氏信女で、江戸城大奥総取締役に至った右衛門佐であることを証明できた。町子は正統な三條西実隆の子孫であったのである。彼女が『松陰日記』に多く『源氏物語』を引くのも三條西家の源氏学の学統に連なっていたからであった。『松陰日記』の本格的研究は是非なされなくてはならない。