著者
Maruyama Naoki 丸山 直起
出版者
国際大学大学院国際関係学研究科
雑誌
国際大学大学院国際関係学研究科研究紀要 (ISSN:09103643)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.27-40, 1984-12

日本人がユダヤ問題と遭遇した最初の機会は、日露戦争のときであった。この戦争において、国内のユダヤ人迫害を強めるロシア帝国の敗北を望むアメリカのユダヤ系銀行家ジャコブ・シフは日本の戦債募集に協力した。しかし、日本、ユダヤ双方の関心が本格的に高まり、相互のアプローチが試みられるには第一次大戦まで待たなければならない。1917年11月イギリス政府はバルフォア宣言を発出、ユダヤ人のナショナル・ホームのパレスチナ建設に賛意を表明した。翌年日本政府もこれにならった。一方ロシア革命の結果、多くの難民が満州の各地に流入し、革命に干渉するシベリアの日本軍と接触、これを機に反ユダヤ文献が多数日本国内へ持ち込まれることとなる。1920年から21年にかけて世界シオニスト機構が東アジアにミッションを送るのは、これまで軽視されてきたオーストラリア、アジアのユダヤ人社会に対し、シオニズムを広め、あわせてパレスチナのナショナル・ホーム建設のための資金を募ることにあった。同時にシベリア出兵後ユダヤ問題の重要性を認識した日本の陸軍省は、参謀本部の将校をパレスチナ、ヨーロッパへ派遣し、事情調査にあたらせたのである。極東とりわけ上海のシオニストは日本の影響力を重視したが、日本がユダヤ問題に真剣に取り組むのは、むしろ1930年代に入り、満州事変、満州国の建国、日本の国際連盟脱退と続く日本の国際的孤立、さらには満州国の財政状態の悪化から国際的ユダヤ世論とりわけアメリカのユダヤ人の影響力に活路を求めようとし、一方のユダヤ側もナチス・ドイツの登場後のユダヤ難民の救済のため、日本に接近する必要に迫られたことに端を発する。