著者
平尾 昌宏 ヒラオ マサヒロ Masahiro HIRAO
雑誌
大阪産業大学論集. 人文・社会科学編
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-23, 2015-02

本稿は前稿に続く,日本語を糧とした哲学的な思索の試みである。日本語や日本文化を論じる近年の哲学的試みには安易な一般化,飛躍が見られる。そこで前稿では確かな地歩を築くため,問題を「いる/ある」両動詞の用法に絞り,空虚な思弁を避けるため,国語学,日本語学研究を参照した。従来「いる」と「ある」の使い分けは,これらの動詞が述語づけられる主語のカテゴリーと,話者の認識という二つの観点から論じられてきた。だが,この二つの見解はともに厳密には成り立たない。そこで前稿末尾では,両動詞の使い分けは話者と主語との関係を示すという新たな仮説を提示した。本稿では,この仮説と従来の二説との関係を考察し,次の諸点を指摘する。(1)これら三説中でわれわれの仮説が最も一般的で,従来の二説を包括できること,(2)しかし,その一般性の故に,われわれの仮説はまだ内実を欠くこと,(3)ただ,従来の二説をわれわれの仮説に基づいた例文解釈のパラメータとして利用できることである。