著者
中生 勝美 Nakao Katsumi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.83-97, 2013-03-01

世界の民族学・人類学は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、いわゆる「戦間期」に飛躍的な発展をとげた。第一次世界大戦後は、民族紛争やナショナリズムの隆盛で民族問題が関心をもたれ、フィールドワークの対象が世界各地の辺境まで及び、その地誌的情報、民族誌的知識は、単なる学問だけでなく、軍事情報として蓄積された。 そうした観点で人類学者の動きや民族誌の形成過程を見てみると、イギリスとアメリカで戦争と人類学の密接な関係が浮かび上がる。日本でも、戦略展開地域を想定して、その地域に住む民族の調査を推進していた。たとえば、帝国学士院東亜諸民族調査室では、日本周辺の少数民族に関して、それぞれ民族台帳を作成して、戦争のための必要な情報を整理していた。 民族台帳の作成は、対象となった民族の研究者に執筆を依頼していた。該当する民族を専門にする研究者がいない場合は、嘱託を募り現地調査をさせて民族台帳を作成する計画をしていた。この嘱託として採用されたのは石田英一郎であった。石田は、治安維持法で逮捕され、出所した後にウィーンへ留学して1939 年に帰国し、40 年から帝国学士院東亜諸民族調査室の嘱託となった経歴がある。石田は「蒙疆の回民」(現在の内蒙古のムスリム)と「樺太のオロッコ」(現在の民族名称ではウィルタ)の研究を嘱託され、現地調査をしていた。前者の報告書は、1945 年の東京大空襲のときに原稿が焼失してしまい、公刊されなかった。後者は一部が『民族学年報』に発表されただけで、全体は未刊である。 フィールドワークからおよそ無縁な石田英一郎が担当した民族調査が、彼のもっとも忌避すべき軍隊に利用される民族であったことを、当時の時代背景と歴史資料から明らかにして、欧米の人類学と同様に、日本でも民族誌がいかに軍事利用されたかという点を明らかにしたい。